宇津山城
(うつやまじょう)

湖西市入出


▲ 城址北側から望見した宇津山城の全景。左の平坦部分が
西の城、右の最高所が東の城で土塁や石垣が残っている。

湖上の城塞

 大永四年(1524)、遠江を掌中におさめた今川氏親は、いまだ混沌としている東三河の情勢に対応するため、多米峠越えの街道を押える当地に城を築いた。築城奉行は長池九郎左衛門親能で、築城後は城代として守備に就いた。

 享禄年間(1530前後)には三遠(三河・遠江)国境の城としての重要性が増したためか、今川譜代の重臣朝比奈氏一族の朝比奈紀伊守氏泰が城主として赴任した。弘治元年(1555)、氏泰が病没すると嫡子孫太郎泰充が二代目城主となった。

 この頃の今川氏は義元の代で軍師雪斎の巧みな軍略によってその勢力は三河一円に及び、今川氏最大の版図を誇っていた。

 しかし永禄三年(1560)、桶狭間合戦で義元が敗死して後は、徳川家康が三河に独立するなどして三遠国境も平穏ではなくなってきた。城近くの国境多米峠の反対側にある五本松城の西郷弾正左衛門正勝も今川を離反して徳川方へと旗色を変えた。

 衰運の色濃い今川氏に対し、あくまで忠誠を貫こうとする泰充は単独で五本松城を攻め落して今川家健在の気勢をあげた。これは永禄五年七月のことである。その後しばらくは国境も平穏な状態が続いた。一方で粘り強い家康の三河統一も永禄七年にはほぼ完了して、再び国境付近は緊張状態となるのである。

 徳川方による西遠地方における今川離間工作もいよいよ活発となり、今川に属しながらも徳川に心を寄せる小土豪が増えてきた。宇津山城とて例外ではなかった。

 永禄九年正月、城内謡初め会において泰充の弟真次が兄を殺害して新たに城主の座についてしまった。真次は今川を見限り、徳川につくつもりであったのだ。彼の背後にどのような働きかけがあったのか分からないが、謀反に踏み切るには時期尚早であった感がある。

 翌永禄十年正月、今川氏真の命をうけた小原肥前守鎮実が宇津山城を攻めて真次一族は討滅されてしまった。さらに、今川方は吉備(湖西市)に境目城を築いて宇津山城とともに徳川勢の来攻に備えたのであった。

 永禄十一年十二月、家康は遠州攻略の実行に踏み切った。湖西方面の平定には酒井忠次があたった。十三日、境目城を難なく落とした酒井勢は地元の地侍らを傘下に入れ、十五日早朝には宇津山城へと攻め掛かった。

 城側からは小原鎮実の家老増田団右衛門が手勢を率いて迎え撃ったが、討死してしまった。城主鎮実は城内に爆薬を仕掛け、戦わずして湖上へと逃れ出た。

 城は大爆発、炎上したが、酒井勢はたいした犠牲を払うこともなく城を接収した。

 その後は徳川の城となり、松平(形原)紀伊守家忠が在番となった。元亀三年(1572)には松平(竹谷)備後守清善が城主となったが、それ以降はこの城が歴史に登場することはなくなった。

▲高山(東の城)山頂のT郭に立つ説明板。

U廓、V廓跡に残る土塁。土塁の内側は石垣で強化されている。この城の特徴のひとつである。

▲山麓の正太寺入口。

▲中腹の正太寺。

▲正太寺から浜名湖を眺める。

▲宇津山城主供養碑。

▲碑には三人の城主の戒名が刻まれている。中央に朝比奈氏泰、右に嫡男泰充、左が二男真次である。

▲山頂の墓地。ここも城跡であるが、地形は改変されている。

▲墓地の北側には遺構が残る。

▲土塁。

▲土塁。

----備考---- 
訪問年月日 2003年10月19日 
再訪年月日 2023年5月2日
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「宇津山城」他

トップページへ 遠江国史跡一覧へ