■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2023 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。 |
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11月15日(水)曇時々晴/赤穂城(赤穂市) 城跡に隣接する市立歴史博物館の駐車場へ車を停め、城内の散策を開始した。時間は九時前である。 三の丸大手門から入城する。門を入るとお決まりの枡形である。ここ三の丸は昨日寄った大石神社があり、大石内蔵助の邸宅のあった所でもある。 三の丸から二の丸へ向かう。二の丸は本丸を全周を囲んでいる。北端に二の丸門があり、そのまま南へ向かうと本丸門である。この辺りは本丸門や枡形門、石垣や塀が復元されており、見所のひとつである。本丸内には御殿跡が平面表示されており、南東隅には天守台がある。 厩口門から二の丸へ出て本丸門前へ戻る。ここに兵学者として名高い山鹿素行の像がある。再び三の丸に戻り、清水門跡から出ると歴史博物館前である。残念ながら、博物館は休館であった。 |
↑赤穂城 大手門と大手隅櫓 ↑本丸門 |
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11月14日(火)晴/竹中半兵衛の墓、三木城(三木市)、大石良雄屋敷(赤穂市) 播州赤穂、一泊の旅。まずは山陽道三木東ICから三木市内へと車を進める。目的地は三木城である。三木城は天正六年(1578)に対毛利戦を任された羽柴秀吉によって城攻めが始まった別所長治の城である。 三木城攻めは天正六年三月から天正八年一月までのほぼ二年近くかけて行われた。その徹底した兵糧攻めは「三木の干し殺し」と言われた。秀吉は三木城の北東約2.5kmの平井山に本陣を置いて三木城攻めの指揮を執った。 この平井山の麓に竹中半兵衛の墓が残っている。竹中半兵衛重治は羽柴秀吉の軍師として名高い。秀吉の陣中には常に半兵衛の姿があった。その半兵衛、この三木城攻めの陣中において胸を病み、京へ下がって静養することになった。しかし病状は良くならず、死期を悟ったのか、半兵衛は三木攻めの陣に戻った。戦陣の中で生涯を全うしたかったのであろう。天正七年(1579)六月、陣没。36歳の若さであった。三木城の落城はそれから半年後のことであった。 三木城は三木市街地を流れる美嚢川左岸の上の丸台地に築かれた丘城である。車は二の丸跡のみき歴史資料館の駐車場に停め、館内を見学した後に徒歩で本丸跡へと向った。遺構としては目立ったものはなく、伝天守台とかんかん井戸がある程度である。天守台と呼ばれる部分には城主別所長治の辞世の句碑が建っており、天守台前には別所長治の騎馬像も建てられている。 三木城本丸から南へ350mほどに雲龍寺がある。ここに別所長治夫妻の首塚があるので徒歩で向かった。 再び山陽道を西へ進み、赤穂市へと入る。そして赤穂城跡へと向った。すでに陽は西へと傾いている。晩秋の日暮れはつるべ落としという。城内の散策は翌朝とし、本日は大石神社と付随する資料館の見学を最後とした。 この大石神社のある所は赤穂城の三の丸にあたる。神社の御祭神は言うまでもなく忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士四十七士である。この神社には義士宝物殿、同別館、義士木像奉安殿、大石邸長屋門と庭園があり、一見の価値がある。とくに大石邸長屋門は国の史跡にも指定されている。長屋門内には江戸からの急使を迎え、書状を確認する大石内蔵助のシーンが人形で再現されている。 |
↑竹中半兵衛の墓 ↑三木城本丸 ↑大石良雄邸 |
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10月19日(木)晴/晴明塚、大石屋敷、惣勢山砦、安威砦(掛川市) 晴明塚は平安時代、陰陽師の安倍晴明がここに立ち寄った際に津波除けの祈祷を行ったと伝えられており、その後はこの村だけ津波の被害がなくなったと言われている。 後には疫病退散の祈願が盛んになったという。塚の石を一つ持ち帰り、祈願成就の際には意志を二つにして塚へ返すのだそうだ。そして一夜明けると、どんな色の石でも小豆色に変わるという。遠州七不思議のひとつである。 高天神城の南約2.5km、かつての大坂村に立派な長屋門を持つ大石氏の屋敷があり、現在も同氏の居住地となっている。 天正二年(1574)、三十一代大石久末は父義久と高天神城に籠り、武田勝頼の軍勢と戦った。この戦いで義久は戦死、落城後に久末は徳川方の馬伏塚城に入った。天正十年(1582)、久末は浪人して大坂村に帰農した。そして千石の地を開拓して一村を立てた。 高天神城の東1.5kmほどの所に南北に連なる丘陵地がある。ここに高天神城を包囲するために築かれた徳川方の砦跡が点在している。 その中でも武田勝頼が高天神城攻めの際に本営を置いたとされるのが惣勢山砦である。しかし、城としての遺構は見られないらしい。また、勝頼が本営を置いたとするのも確たる史料によるものではないようだ。 砦跡の南麓に標柱と石碑が建てられている。砦跡とされる丘は藪となって簡単に立ち入ることはできない。 惣勢山砦の北約800mの丘陵が安威砦である。この砦はまぎれもなく徳川方によって整備された高天神城付城群のひとつである。隣接する火ヶ峰砦とともに横須賀城主大須賀康高ら横須賀衆の持ち場だったようだ。 この砦跡も藪化が進み、踏査にはそれなりの覚悟がいるものと思われる。 |
↑晴明塚 ↑大石屋敷 ↑惣勢山砦 ↑安威砦 |
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9月26日(火)晴/宗安寺(浜松市)、熊野旧跡(磐田市) 宗安寺は江戸初期に浜松市東区市野町周辺の代官を勤めた市野氏四代の菩提寺である。境内墓地には市野氏歴代の墓碑が苔むしている。 市野氏の来歴は不明な点があるが、初代とされる惣太夫実久は永禄十一年(1568)に遠州入りした徳川家康にいち早く臣従したようである。惣太夫実久は家康から直々に地名を名とし、丸に一文字を家紋とするように言われたという。慶長五年(1600)には在所周辺の代官に任ぜられ、以後四代続いた。 熊野(ゆや)の石塔は天竜川東岸の行興寺にある。熊野の長藤は国や県の天然記念物に指定されており、五月のゴールデンウイークの頃には多くの花見客で賑わっている。行興寺本堂の西隣に御堂があり、その奥に二基の石塔が建っている。これが熊野の石塔で、熊野御前とその母の墓であると伝えられている。 熊野御前の話しは有名である。平家全盛のころ、熊野は平宗盛に召されて上京した。宗盛の寵愛を受けた熊野であったが、母が病気となったため帰国を願い出た。しかし帰国は許されず、熊野は「いかにせん都の春も惜しけれど、なれし東の花や散るらん」と母を心配する一首を詠んだ。宗盛は心を打たれ、熊野の帰国を許した。その後、平家は西海に滅び、熊野は故郷で尼となって生涯を終えたという。 |
↑宗安寺 ↑熊野旧跡 |
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8月26日(土)晴/新居関所(湖西市) 近くだからいつでも行ける。と思いつつ数十年が過ぎてしまった。 新居関所跡は国の特別史跡となっている。関所の遺構としては国内で唯一現存する建造物なのである。 慶長五年(1600)、徳川家康は各街道を整備して要所に関所を設けた。新居関所はそのひとつで東海道の浜名湖西岸に置かれた。幾度かの災害に見舞われ、現在地に再建されたのは宝永五年(1708)とされている。その後も地震による倒壊があり、安政五年(1858)に建て替えられたものが現在に残っている。明治期に小学校や役場として使用されたために破壊されずに済んだのである。 |
↑新居関所 |
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7月24日(月)晴/大隅国分寺、国分城(霧島市) 空港へ向かう途中、霧島市の国分城へ寄る。駐車場がないので至近にある大隅国分寺跡の見学用駐車場へ車を停めた。 大隅国分寺は奈良時代の聖武天皇の勅願によって全国に建立された寺院のひとつである。 しかし多くの国分寺がそうであったようにこの国分寺も時代と共に損壊してしまった。ここにはその名残として多重層塔や仁王像などの石造物が残されている。 国分寺跡から歩いて数分のところに国分小学校がある。この小学校の南側道路沿いに堀と石垣がのこっている。 島津義久が晩年を過ごした城である。慶長九年(1604)に築城され、義久の後は娘で家久の正室であった亀寿姫が住んだという。 |
↑大隅国分寺 国分城 |
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7月23日(日)晴/西郷南洲翁宿所(鹿児島県肝属郡南大隅町)、鹿児島城(鹿児島市) 四年ぶりの墓参を兼ての鹿児島旅行である。家族や孫たちを引き連れての旅はにぎやかで楽しい、思い出に残る旅であった。 本日は鹿屋の墓参を済ませて南大隅町の根占へ向い、そこからフェリーで薩摩半島へ渡る計画である。もちろん史跡めぐりは外せない。根占には「西郷南洲翁宿所跡」が残されている。瓦屋根とガラス戸以外は当時のままという家屋である。普段は施錠されており、屋内を見ることはできない。あらかじめ役場へ電話しておけば管理人の方に開けておいてもらえる。内部の案内や説明までしてくれるのでありがたい。 明治10年(1877)2月、鹿児島では私学校生徒たちが草牟田の火薬庫を襲い、火薬や銃弾を奪って決起した。西郷隆盛はその報告をここ根占の宿所で受けた。その時西郷は「ちょっ、しもたっ」と発したという。「とうとう、やったか」と西郷も意を決して鹿児島へ向ったのであろう。 一路、薩摩半島を北上して鹿児島市内へ入り、鹿児島城跡へ向かう。鹿児島城は幾度となく訪れてはいるが、近年になって城の玄関口である御楼門が復元されたために立ち寄ることにした。明治6年に焼失したというから、西南戦争当時は無かったことになる。石垣には当時の弾痕が無数に残っている。その弾痕を覆うようにして楼門が建てられている。なんとなく複雑な思いがする。 |
↑西郷南洲翁宿所 鹿児島城 |
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7月6日(木)晴/蒲神明宮、妙恩寺、市野砦(浜松市) 梅雨の晴れ間となったので出かけるチャンス。ということで市内を散策した。 蒲神明宮はその由緒によれば藤原鎌足十代の孫、藤原静並が伊勢神宮の御神託によって当地を開拓、その土地を御厨として伊勢神宮に寄進して神宮を勧請した、とされている。 平安時代のことである。蒲氏はこの辺一帯の広大な開拓地をすべて伊勢神宮に寄進してその荘官となることで土地を支配した。平安後期には源頼朝の異母弟である源範頼がここ蒲御厨で生まれ、成長している。範頼を蒲冠者と呼ぶのはここからきている。 JR天竜川駅の北200mほどのところに日蓮宗妙恩寺がある。戦国時代、十一代住職日豪上人は武田氏重臣馬場信春の末子と伝えられているが、徳川家康との関わりが深い。三方原合戦の前哨戦として知られる一言坂の戦いの際に家康は本多忠勝を殿軍にして浜松城へ撤収している。 この途中で家康はここ妙恩寺に立ち寄り、身を隠したというのである。日豪上人は敵味方の区別なく家康を天井裏に匿ったと言われ、寺の紋の「丸に二引き」はこの時に与えられたものとされている。 戦国争乱の永正10年(1513)、斯波氏が井伊氏の三嶽城に兵を集めたのに対して今川氏はこれを打ち破り、城を落としている。この戦いに際して今川勢はここ市野砦に一時布陣したことが伝えられている。 現在、周辺は宅地、畑地、工場となって遺構は消滅している。砦跡の説明板の北隣に曹洞宗宗安寺がある。この寺は当地の市野氏によって建立されたものである。市野氏は家康の遠州入り早々に仕えたとされ、馬役や代官を務めたと言われている。 |
↑蒲神明宮 ↑妙恩寺 ↑市野砦 |
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6月24日(土)晴/鎌田兵衛供養塔(磐田市)、源朝長墓所(袋井市) 東海道本線御厨駅の南側一帯の地が鎌田と呼ばれている。駅から南へ約500mの畑地の中に三基の五輪塔がまとめられている。中央の最も大きい五輪塔が鎌田兵衛政家の供養塔とされている。 鎌田兵衛政家は源義朝の家臣である。平治の乱(1159)で東国へ落ちる際にも政家は行動を供にし、妻の実家である知多半島野間に義朝を案内した。ところが妻の実家の長田氏は政家と義朝を討取って首を平家へ渡したのである。 義朝と政家の墓は野間の大御堂寺にあるが、なぜ遠州の地に政家の供養塔(墓)があるのか、詳しいことは分からないらしい。政家の家臣かその縁者が出身地のここに建立して供養したとされている。 敷地川の中流にあたる袋井市友永に禅刹積雲院がある。ここにも源義朝東国落ちにまつわる五輪塔が伝わっている。義朝の二男朝長の墓である。 父義朝と共に戦場を落ちた朝長であったが美濃青墓の宿(大垣市)に至り、負傷した傷が癒えず、自害して果てた。後日、平家方によって遺骸は掘り返され、首が京都に晒された。朝長の家人大谷忠太は首を故郷へ持ち帰り供養した。忠太は生涯にわたり墓を守り続けたという。 |
↑鎌田兵衛供養塔 ↑源朝長墓所 |
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5月10日(水)晴/鉢形城(大里郡寄居町)、杉山城(比企郡嵐山町) 今日も快晴、風もなく日中の気温上昇は間違いない。 宿泊先から10数分の所に鉢形城がある。ここにもガイダンス施設として「鉢形城歴史館」がある。いつものように歴史館からと入口へ向かったのだが、開館の15分前だったので先に城址散策を始めた。 歴史館の裏側一帯が城址域である。内堀となる深沢川を渡ると右手に立派な土塁が現れ、左手には曲輪の切岸が迫っている。これだけでも圧巻なのだが城跡はさらに広範囲に広がっている。各曲輪を巡るにはかなりの時間を要すると思われる。 鉢形城は山内上杉氏の家臣長尾氏によって築かれ、後に北条氏康の四男氏邦が城主となり北関東の拠点として拡充整備したものである。 昨日の予定であった杉山城へ向かう。玉ノ岡中学校の北側に見学者用の駐車場がある。城址へ行くには校内を通って案内に従い、約8分ほどで曲輪への入口に至る。そこには説明板とパフレット置場が設けられている。 日差しは強く、心地よい汗が流れる。パンフレット置場の出郭から大手口へ、そして外郭へと向かう。堀と土塁と切岸のラインが見事に残っている。本郭から俯瞰する郭群はこれまた圧巻である。樹木が伐採され、城址としての整備が行き届いている。 ところが、これほどの遺構が残されている城なのだが、その歴史は不明な点が多いらしい。出土遺物の年代から類推して長享の乱(1488)後に山内上杉氏によって築かれたものと考えられている。という程度なのである。 |
↑鉢形城 ↑杉山城 |
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5月9日(火)晴/川越城(川越市)、菅谷館(比企郡嵐山町) 一泊で埼玉県の城巡りに出かけた。 まずは川越城である。関越道川越ICから10分ほどで川越市役所、かつての川越城大手門跡である。そこからすぐに左手に市立博物館、右手に川越城本丸御殿となる。 専用駐車場に車を停め、博物館で川越の歴史を概観した後に御殿へと向った。博物館のある所が二ノ丸で、御殿は当然本丸である。本丸御殿のすべてが残っているわけではなく、一部が残存しているに過ぎないが、やはり貴重な遺構である。平成の大修理が実施され、公開されている。 川越城は戦国期に古河公方に対する扇谷上杉氏の最前線の城として太田道真、道灌父子によって江戸城とともに築かれた。古河公方との対立が一区切りすると山内上杉氏との抗争の最前線となったが、打ち続く戦乱によって両上杉氏ともに疲弊してゆくことになる。そこへ後北条氏が登場して相模を平定、川越城もその支配下に置かれた。その後北条氏も豊臣秀吉によって滅ぼされ、関東は徳川家康のものとなり、譜代川越藩の府城として明治に至るのである。 川越から再び関越道に乗り、北上する。東松山ICから15分ほどで国指定史跡比企城館跡群菅谷館跡に到着する。比企城館跡群は杉山城、小倉城、松山城そして菅谷館の四ヵ所のことである。 菅谷館跡には県立の「嵐山史跡の博物館」が併設されている。まずはこの博物館で史跡の概観を確認する。販売図書の購入も重要な目的である。 菅谷館は鎌倉期の板東武者畠山重忠の館跡とされる。畠山重忠は鎌倉幕府草創の武蔵を代表する御家人であったが、後に北条氏によって滅ぼされ、非業の死を遂げたことで知られている。戦国期には山内上杉氏によって改修が加えられたとされている。 この後、比企城館跡群のひとつ杉山城跡へ向かう予定であったが、どうも体調が思わしくなく、明日にして宿泊先へと向った。 |
↑川越城本丸御殿 ↑菅谷館 畠山重忠公の像 |
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5月2日(火)晴/岡本居館(浜松市北区)、宇津山城、取手山(湖西市) 国道301を三ヶ日町の市街地を抜けた辺り、台地の縁辺部に岡本居館跡がある。土塁で囲まれた方形の居館跡である。 居館主である岡本氏は浜名県主の分流で、戦国期には四代ほどの名が伝えられている。 現在は居館跡の土塁内側一帯は墓地となっている。看板によれば墓地の名称は「岡本城山墓地」と呼ばれている。 湖西市入出の宇津山城は浜名湖西岸から半島状に突き出た丘陵上に築かれた城である。戦国期、今川氏による遠江西部の重要拠点のひとつでもあった城である。 宇津山城の訪問は20年ぶりである。城山中腹の正太寺に宇津山城主朝比奈氏三代の墓塔があることを知り、その撮影のための再訪となった。 取手山は宇津山城の支砦であったと伝えられているがその詳細は不明である。 永禄11年(1568)12月の徳川勢による遠州討ち入りの際には酒井忠次の一隊が湖西に進出して宇津山城を攻め落としている。この時に酒井隊が一時的にこの取手山に布陣したかもしれない。 |
↑岡本居館 ↑宇津山城 ↑取手山 |
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4月20日(木)晴/堂崎居館、浜崎居館、鵺代居館(浜松市北区) 三ケ日町宇志に利正院という禅刹がある。南北朝期、当地の豪族浜名氏の一族で浜名小五郎利正が開基という寺である。 利正はこの周辺に居館を構築して居住したという。堂崎居館と呼ばれるものである。その後、洪水で崩壊したとされるが、天文の頃(1540頃)に一族子孫の大屋光政がここを修築して居住した。 利正院境内には大屋氏のものと伝わる古い五輪塔が並んでいるのみで遺構は見られない。 三ヶ日町の市街地となっている字浜崎に浜崎居館跡がある。周辺は宅地化が進み、遺構は完全に消滅しているようだ。 浜崎居館には浜名氏の有力家臣であった県(安形)氏が居住していたとされる。慶長10年(1605)には将軍上洛のために休泊のための御殿が造営された。 猪鼻湖の西岸、字鵺代には鎌倉期に浜名氏歴代の居住地がある。鵺代居館である。居館地には臨海院、八住神社があるが遺構は見られない。 鵺退治で有名な源三位頼政の末裔とする浜名氏が鎌倉期以来本拠地とした所が当地である。南北朝期、浜名清政は北朝足利方に属して南朝方井伊氏との戦いに参戦、故地を奪回している。後に佐久城を築いて鵺代の地から移った。 |
↑堂崎居館 ↑浜崎居館 ↑鵺代居館 |
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3月28日(火)晴/安形伊賀守屋敷、土居城(浜松市北区) 安形伊賀守正道は戦国期に猪鼻湖岸の佐久城主浜名氏に仕えた土豪であったと思われる。永禄十二年(1569)に浜名氏が城を退転して甲斐に逃亡、城は開城して浜名氏は滅んだ。 残された家臣らは徳川に仕え、安形氏も徳川麾下の戸田氏に従った。この戸田氏は宇都宮藩主となり、安形氏は代々家老を勤めた。 伊賀守屋敷から1.7kmほど県道308を北上すると土居城址である。 この城も浜名氏の同族の大屋氏の城であったとされている。説明板には「永禄年代大屋左馬允政景が居たが浜名氏没落の時廃墟となったらしい」とある。 永禄十二年(1569)に主君浜名氏が佐久城を脱出して甲斐へ落ちた時、残された大屋氏ら浜名家臣たちは徳川の麾下に参じて、その多くが郷土を離れたものと思われる。 |
↑安形伊賀守屋敷 ↑土居城 |
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2月22日(水)晴/西尾城(西尾市) 西尾城も再訪である。14年ぶりである。当時は鍮石門(ちゅうじゃくもん)と本丸の丑寅櫓が再建されていた。その後、二の丸丑寅櫓が再建されているということでの再訪である。 西尾城は西条吉良氏の城として戦国期に築かれた城とされる。その後、牧野氏、酒井氏、田中氏と城主が変転し、関ヶ原後に本多康俊が二万石で入部して西尾藩となった。 |
↑二の丸丑寅櫓 |
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2月21日(火)晴/聖徳寺跡(一宮市)、名塚砦、稲生原古戦場、名古屋城(名古屋市) 織田信長が「うつけ」と呼ばれていた若かりし頃、その「うつけ」に娘を嫁に出した斎藤道三がその真偽を確かめようと実際に会ってみようとした。それが聖徳寺の会見である。先に着いた道三は小屋の物陰から信長の行列を見たという。信長の格好は噂通りのうつけ姿であった。 ところがいざ会見の場となると信長は凛々しく正装で出てきたのだ。道三は信長のことをただ者ではないと見抜いたのであろう。帰り道で道三は「わが子供らはたわけが門外に馬を繋ぐことになろうよ」と嘆いたという。 その聖徳寺、現在は名古屋市内に移ってしまったために会見のあった当時の富田の寺跡には石碑が建つのみである。 会見から三年後の弘治二年(1556)、この前年清州城に移った信長は身内の分裂に悩まされていた。弟信行との争いである。織田家中も割れていた。あの柴田勝家もこの時は信行側にいたのである。この年、那古野城の林通勝らに謀反の動きがあったために信長は急いで名塚に砦を築き、佐久間盛重に守らせている。 名塚砦築城から二日後、信長は兵を率いて進出、信行側の柴田勝家らと稲生原で戦った。結果は信長の勝利に終わった。戦後、末森城に籠っていた信行、林、柴田らは母土田御前の歎願により信長から赦された。柴田勝家はこれを機に信長に従うことになるが信行にその気はなかったようである。翌年、とうとう信行は清州城に誘殺されてしまう。 現在、名古屋市西区の名塚町の白山神社に名塚砦跡を示す説明板が立てられている。そこから南へ200mほどのところに庚申塚がありそこに稲生原古戦場の説明板と稲生合戦戦没者供養塔が建てられている。 この古戦場跡から2.5kmほど南に名古屋城がある。17年ぶりの再訪である。当時はまだ本丸御殿が復元される前であった。御殿が完成したのが2018年であるから5年前のことである。御殿を見学したくて再訪ということになった。当時の芸術・工芸の最高峰を極めた御殿といえる。 本丸の東側の広場が二の丸である。二の丸の中ほどにかなり傷んだ石碑が建っている。那古野城跡を示す石碑であるが「那」の字がかろうじてわかるくらいだ。那古野城は織田信秀が分捕った城である。信秀はこの城をまだ幼い嫡男信長に与えた。信長は21歳に清州城に移るまで那古野城を居城としていた。 |
↑聖徳寺跡 ↑名塚砦 ↑稲生原古戦場 ↑名古屋城本丸御殿 |
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2月14日(火)晴/浜松城(浜松市) 年明けから始まったNHK大河ドラマ「どうする家康」にともなって浜松城二の丸跡に大河ドラマ館がオープンした。 市内に住む私にとって浜松城は最も身近な城であり、そこで戦国の最も苛烈な時代を生きた徳川家康という武将も最も身近な人物である。 徳川家康は最終的には天下を統一して泰平の世を創出した。しかし、それは苦渋と選択の連続であった。決して常勝の負け知らずの強い武将ではなかった。 三方ヶ原の戦いでは浜松城に籠っていればそれで済んだのだが、家康はあえて城を打って出た。結果は完敗で、多くの家臣を犠牲にしてしまった。これほどの敗戦となれば次々と離反者が出てお家滅亡となってもおかしくない。実際、他家の滅亡時を見てみればわかる。今川家しかり、朝倉氏、武田氏、北条氏しかりである。徳川家がそうならなかったのは家臣団の一途さとそうさせるだけの家康の人柄にあったはずである。 大河ドラマ館は今月はプレオープンということで大河ドラマ歴代の家康像を紹介している。三月からはグランドオープンということで展示内容が一新されるらしい。楽しみである。 |
↑どうする家康大河ドラマ館 ↑発掘調査を踏まえて平面表示された二の丸御殿跡 |
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2月5日(日)晴/諸井陣屋、十二所居館、平芝陣屋(袋井市) 常陸国の戦国大名小田氏の忠臣として知られる菅谷氏は主家小田氏の滅亡後、徳川家康に見出されて旗本に列した。菅谷範政、常陸国筑波郡内五千石である。元禄十一年(1698)、範政の五代目範平のとき、遠江国への采地替えとなった。豊田郡、山名郡内四千五百石である。陣屋は豊田郡西島村に置かれたことは広く知られているが、ここ山名郡諸井村(袋井市諸井)にも陣屋が置かれていた。 陣屋跡には長屋門が現存しており、当時の代官であった富田氏が現在でも当地にご健在である。 諸井地内には十二所居館跡と呼ばれる中世館跡が残存している。鎌倉末期から戦国天正期までの間に改修を重ねながら断続的に続いた堀と土塁に囲まれた方形居館跡と見られている。しかしながら居館主は分かっていない。最終形態では南側に外枡形虎口を設けており、戦時に備えられた拠点であったことは確かであろう。 現在では居館跡の北側半分が心宗院の境内となっており、寺の裏手には土塁が残存している。そして南側半分は発掘遺構は埋め戻されて公園となっている。十二所とはこの地の小字名で、熊野十二所権現からきている。 平芝陣屋は久喜藩米津氏の分家で旗本に列した米津田賢四千石が元禄十一年(1698)に三河国宝飯郡、遠江国城東郡、山名郡に采地替えとなった際に構えられたようである。山名郡三ヶ村五百石の陣屋であったらしい。 現在では茶畑の中に笹薮の一画が残り、説明板と石碑が立っている。八幡神社近くの民家に陣屋門が移築されているので見に行ったが、残念ながら解体撤去されてしまっていた。 |
↑諸井陣屋 ↑十二所居館 ↑平芝陣屋 |
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1月21日(土)晴/亀井戸城、仲明城、社山城(磐田市) 元亀三年(1572)、武田信玄が遠江へ侵攻して二俣城を攻めた際に本陣を置いたとする合代島は亀井戸城であった可能性が強いとされる。それ以外の城史は不明であるが、元々在地土豪の砦があったものと見られ、それを武田勢が増強、改築したのであろう。天竜川沿いに北から神田山砦、ここ亀井戸城、そして南側の社山城と等間隔に連なっている。それに天竜川対岸の様子も容易に把握でき、信玄が本陣を構えたというのも頷けるというものである。 城跡には遺構が良く残存しているということであるが、史跡として整備されているわけではなく、容易に踏み入ることはできない。 亀井戸城の東2kmに仲明城がある。この城も創築、城史など不明である。位置的には武田信玄が合代島に本陣を置いた際の背後の守りの拠点となったとの見方もある。城館資料によれば城主敷地左衛門尉の名が記された石碑が城址に残るとされる。彼もまた在地小土豪であったものかも知れない。 この城も亀井戸城と同じく遺構は残存するものの放置状態にあり、容易に踏み入ることはできない。 社山城は亀井戸城の南2kmにある。磐田原台地上においては最も高所にある。そのためか戦国初期にはその存在が知られており、今川氏と斯波氏の抗争の舞台にもなっている。武田信玄が合代島に本陣を置いた際には当然ここ社山城もその支配下に置かれたはずである。 社山城は十数年ぶりの再訪である。あたりまえだが堀や土塁などは当時のままであった。文化財に指定されると維持管理の手が入るので関係者の方々には感謝である。 |
↑亀井戸城 ↑仲明城 ↑社山城 |