赤穂城
(あこうじょう)

国指定史跡、百名城

      兵庫県赤穂市上仮屋     


▲赤穂城は正保二年(1645)に封ぜられた浅野長直によって新たに築かれた城
である。後の三代目長矩は元禄十四年(1701)に江戸城中で吉良上野介に刃傷
に及び、即日切腹、浅野家は取り潰しとなった。世にいう元禄赤穂事件である。
(写真・赤穂城本丸門)

赤穂浅野家断絶

兵庫県、かつての播磨国の西部、瀬戸内海の入江に面した所に赤穂城は築かれている。入江といっても現在では埋め立てが進んで、城はかなり海からは遠ざかってしまっている。

ここに最初に城を築いたのは播磨、備前、美作の守護大名赤松氏の一族岡豊前守光景とされている。光景は享徳年間(1452-55)にここへ城を築いたとされ、加里屋古城と呼ばれている。その後、天正年間(1573-91)には岡山城主宇喜多秀家が陣屋を置いて刈屋と呼んでいたらしい。関ヶ原合戦で秀家が滅びると赤穂は姫路城の池田輝政のものとなり、末弟の長政が加里屋に在城して掻上の城が築かれる。

元和元年(1615)、池田輝政の五男政綱が赤穂郡三万五千石を分知されて赤穂藩がはじまった。この時に大書院、広間、玄関などが建造されたという。寛永八年(1631)、政綱、没により佐用郡平福藩主池田輝興が入封して赤穂藩主となった。輝興は城内に金の間、隅櫓、多門、馬屋を築いた。しかし正保二年(1645)に輝興は妻を殺害したことで改易となった。

この年、常陸国笠間藩主(笠間城)五万三千石浅野内匠頭長直が赤穂藩主五万三千五百石として封ぜられた。他に塩田約五千石を有したという。長直は近藤三郎左衛門正純に築城の縄張を命じ、慶安元年(1648)に幕府へ築城願を提出して即日許可され、工事は翌年からはじまった。完成は寛文元年(1661)である。本丸の周囲を二之丸で囲み、北側に三之丸を加えた縄張であった。

長直は山鹿素行を兵法の師と仰ぎ、承応元年(1652)に禄千石で赤穂に迎えた。赤穂入りした素行は二之丸虎口の枡形を手直ししたと言われ、このことから赤穂城は山鹿流の築城と喧伝されるようになった。

寛文十一年(1671)長直は隠居して嫡男長友が継いだ。しかし延宝三年(1675)に長友は早逝したため嫡男長矩が九歳で藩主を継いだ。

元禄十四年(1701)三月十四日、長矩は江戸城内で吉良上野介に斬りかかる刃傷事件を起こした。長矩は即日切腹、赤穂浅野家断絶の沙汰が下った。国家老の大石内蔵助良雄は議論百出の藩論を無条件開城にまとめ、藩士三百余人には割符金を与えて引き払い、引っ越しをさせて城の明け渡しの準備を進めた。四月十三日、大石内蔵助も三之丸の屋敷(大石良雄屋敷)を引き払って城を出、千種川東岸の尾崎村おせど(赤穂城の東約1.3km)の仮寓に移った。以後、京都山科に移るまで大石内蔵助はここに居た。

四月十九日、幕府から赤穂城の収城使に任ぜられた播磨龍野藩主(龍野城)脇坂淡路守安照以下四千五百四十五人と備中足守藩主木下肥後守公定以下千五百人に対して大石内蔵助は城の引き渡しを無事済ませた。

翌元禄十五年(1702)、下野国烏山から永井直敬が三万三千石で赤穂に入部した。宝永三年(1706)には森長直が備中国西江原から二万石で入部した。以後、森氏が十二代続いて明治に至る。

ちなみに元禄十四年(1701)四月に赤穂城を明け渡した大石内蔵助は六月に亡君百箇日の法要を城下の浅野家菩提寺である華嶽寺で営んだ後に赤穂を去り、京都山科の閑居に移った。十一月、江戸の急進派(仇討ち)の堀部安兵衛らを説得するために江戸に入った。内蔵助は亡君長矩の弟浅野大学長広による主家再興の働きかけを幕閣などに行っており、亡君の一周忌まで待つようにと説得して京都山科へ戻った。

年が明けて元禄十五年(1702)三月、亡君の一周忌が過ぎて七月になると浅野大学の浅野本家預かりの沙汰が下り、大石内蔵助のお家再興の望みは絶たれた。内蔵助は京都丸山重阿彌(安養寺六坊の一つ)に堀部安兵衛ら同志十九名を集め、吉良討入りの決意を固めた。

十月までに討入りの士が江戸に集まった。その後、本所の吉良邸の偵察と上野介の行動監視を続け、討入りの準備を進めた。そして十二月十四日夜半に四十七士が集結して十五日未明、ついに吉良邸に討入り、吉良上野介の首級を上げて泉岳寺の亡君の墓前に供えた。

大石内蔵助以下四十七士は幕命により元禄十六年(1703)二月四日に切腹となり、一連の赤穂事件は終結となった。


▲三之丸大手門。

▲大手隅櫓。

▲大手門枡形。

▲二之丸の家老大石頼母助屋敷門。

▲本丸を囲む堀。

▲本丸門。

▲本丸御殿跡。間取りが平面表示されている。

▲天守台と本丸庭園。

▲本丸厩口門。

▲二之丸跡に建つ山鹿素行の銅像。

▲清水門跡から見た二之丸東北隅櫓台。

▲城内案内図。



----備考----
訪問年月日 2023年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「実録忠臣蔵」他

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