取手山
(とりでやま)

湖西市入出


▲取手山は宇津山城の出城であったとされるが詳細はよく分からない。
(写真・北側台地上から見た取手山)

宇津山城攻めの仮城

取手山の名は砦からきた地名とされる。宇津山城の出城があったと言われ、何らかの軍事施設が構えられていたものと思われる。

標高20mの山頂からは眼下に入出内浦湾を望み、本城とは丘陵の尾根伝いに往来していたと推察されている。

昭和23年の内浦湾干拓により、その採土によって取手山の南側は半壊状態となっている。なお、明確な城郭遺構は確認されていない。

永禄十一年(1568)十二月十三日、徳川方の酒井忠次の軍勢は境目城(湖西市吉美)を落として近くの妙立寺に本陣を置いた。忠次は直ちに郷士の松野喜楽斎を召して宇津山城攻めの道筋を尋ねた。松野喜楽斎は新所村の西を経由して入出村の屋奈尻(宇津山城の約1km南西・小字根古屋の西隣)という所へ出る道を案内した。

翌日、吉美郷士らの道案内によって酒井勢は鵙原(もずがはら)に進駐、入出に仮城を築いたと「菅沼家譜」にあるというが、この鵙原の位置がよく分からない。彦坂良平著「宇津山城」には「宇津山城を隔たること一粁程のところ」とある。ともあれ、酒井勢はこの時に仮城を築いているとある。取手山のことかも知れない。

十五日早朝、酒井勢は屋奈尻で城中より打って出てきた城主小原鎮実の家老増田団右衛門の一隊を打ち破り、宇津山城を奪取した。城主は戦わずして舟で遁走した。


▲取手山の遠景。

▲北側から見た取手山。反対の南側は採土によって削り取られている。

----備考---- 
訪問年月日 2023年5月2日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「宇津山城」他

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