境目城
(さかいめじょう)

湖西市吉美


▲ 国境を固める城であったがすでに今川勢に戦意なく、簡単に落ちてしまった。

時遅し、
    孤立の城

 永禄十年(1567)七月、今川氏は、三河統一を果たした徳川氏の来攻に備えるために宇津山城に加えてその南方一里のところに築城をはじめた。いわゆる国境防備の城、つまり境目の城である。

 築城は妙立寺の寺域を接収して進められた。城普請には益田信濃守と水野惣兵衛があたったと妙立寺宛ての氏真判物にある。

 しかし、肝心の地元郷士らの意志はすでに今川を離反して徳川よりになっていたのである。

 翌永禄十一年、徳川家康は遠州入りを決意、行動を開始した。家康は遠州出陣のために吉田城に入り、まず吉美(当地)の郷士佐原三郎右衛門重吉に使いを出した。

 佐原三郎右衛門は吉田城で家康に謁見し、加勢の可否を問われた。
「御先手仕り候」
 三郎右衛門は家康の幕下に従うことを鮮明に宣言した。家康は感激して軍旗を下賜したという。

 吉美に戻った佐原三郎右衛門は内藤三左衛門、松野三右衛門ら一族縁者を集め、決起した。これに合わせて、酒井忠次の軍勢が十二月十二日に境目城に対する富士見山に布陣した。

 これに驚いた城将は慌てて、自ら援軍要請のために引馬城(現・浜松市)へ向ったのである。

 十三日早朝、酒井勢は一挙に攻めた。城将不在の城はいとも簡単に落ちてしまった。

 酒井忠次と佐原、内藤、松野の郷士らは妙立寺に本陣を構えて次なる目標、宇津山城攻略へと向って行くのである。


▲城域の大半は明治期の鉄道建設用土として取り崩され、現在では宅地・畑地となり、南西部の一画が当時の面影を残しているといわれる。

▲城址の一画に建つ妙立寺奥の院。

▲この道の突き当りに旧跡入口の碑があり、そこから先は竹林となっており、城址の面影を残している。

▲「開山日什聖人旧跡入口」の碑。

▲「開山日什聖人御草庵舊蹟」の碑。

----備考---- 
訪問年月日 2003年11月1日 
再訪年月日 2021年7月10日
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」

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