(ゆやきゅうせき)
国・県指定天然記念物(熊野の長フジ)
磐田市池田
▲熊野旧跡は熊野御前の伝承を今に伝えるもので、熊野とその母の墓塔が残っている。
(写真・熊野の墓と母の墓のある御堂)
熊野御前哀話
浜松市から国道1号を東進、天竜川を渡って左折すると磐田市池田である。平安末期から鎌倉期にかけて栄えたと言われる街道の宿駅、池田宿のあった所である。この宿の長者(有力者)屋敷跡に建立されたとする時宗の寺院、行興寺は国の天然記念物「熊野(ゆや)の長藤」で有名であり、広大な藤棚から垂れ下がる薄紫色の花房が咲く春には多くの見物人が訪れている。そして、この長藤にまつわるものとして伝わるのが「熊野御前(ゆやごぜん)」のはなしである。 熊野(ゆや)は池田宿の長者藤原重徳の娘で永万元年(1165)の生まれとされる。没年の建久九年(1198)三十三歳からの逆算である。長者が熊野権現に祈願して授かったことから熊野(ゆや)と名付けられた。花のように見目麗しい娘に育ち、十五歳になったとき、遠江守であった平宗盛(平清盛の三男)に召されて京へ上った。 世は平家全盛のときである。宗盛の愛妾となった熊野のもとへ郷里の池田から母が病に伏したとの報せが届いた。熊野は帰郷を願い出たが宗盛は「この春の花見をともに見たい」として許さなかった。やがて桜花爛漫の季節となり、清水寺で花見の宴が催された。宴に同席した熊野は「いかにせん都の春も惜しけれど、なれし東の花や散るらん」と詠んだ。東の花とは熊野の母のことである。熊野の母親を案じる姿に宗盛は心を打たれ、即座に帰郷を許した。熊野が池田に戻ると母は回復してその後十年近く長生きしたらしい(建久元年(1190)没)。 熊野の帰郷後、寿永二年(1183)には挙兵した源氏に京を攻められた平宗盛ら平氏一門は都を落ちて西国へ向かう。翌年、一ノ谷の戦いで平氏は大敗、宗盛の弟重衡が捕らえられて鎌倉へ送られた。 その途次、護送されて海道を下る重衡は池田宿に泊まった。ここで熊野は囚われ人の重衡を見て「旅の空 埴生の小屋のいぶせきに ふるさといかに恋しかるらん」と歌を渡した。重衡は「ふるさとも恋しくもなし旅の空 都もついのすみかならねば」と返した。熊野の「故郷が恋しいでしょう」とする歌に重衡は「都は安住の地ではなくなり、恋しいとは思わない」と返したのである。重衡は護送役の梶原景時に「歌の主はいかなる女性か」と尋ねた。ここで景時は宗盛の愛妾となった熊野の京における話をしたという。 以上が熊野御前のはなしである。「平家物語」に平重衡が鎌倉へ護送される途中に池田宿で熊野と歌を交わし、熊野の素性を知らされたことが記されており、これが後に謡曲(能)などに発展したとされる。 寿永四年(1185)、壇ノ浦に平家滅亡。この年、捕らわれた平宗盛は近江にて斬首、平重衡も奈良(南都)にて斬首された。 それから五年後の建久元年(1190)四月三日、熊野の母が没した。そして建久九年(1198)五月三日に熊野が没した。享年三十三歳であったらしい。 ちなみに熊野は母のことで、娘は侍従という名前であったとし、諸文献によって違いがあるようだが、ここでは一般的な伝承によった。 |
▲行興寺山門。入口の右に「熊野旧跡」の石柱が建っている。 |
▲熊野御前の旧跡に関する説明板。 |
▲天然記念物「熊野の長フジ」の説明板。 |
▲山門を入ると一面の藤棚で、その奥が本堂である。 |
▲本堂前の県指定の藤の古木。 |
▲同じく県指定の古木。境内に県指定の古木が五本ある。 |
▲右が熊野の母の墓。左が熊野御前の墓。本堂横の御堂の奥に建っている。 |
▲山門前に建つ「天然記念物熊野の長藤」の碑。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2023年9月26日 |
主要参考資料 | 「遠江古跡図絵」他 |