国分城
(こくぶじょう)

市指定建造物(朱門)

        鹿児島県霧島市国分中央2丁目     


▲国分城は別名舞鶴城とも呼ばれ、島津義久とその娘亀寿姫が晩年を過ごした城である。
(写真・国分小学校前に建つ城址碑)

父娘の隠居城

霧島市街地の北東、海抜約190mの山上を城山と呼び、その西麓に国分小学校と国分高校の校舎が立ち並んでいる。ここはかつて島津義久によって築かれた国分城の跡なのである。背後の城山は隼人城と呼んで詰城の役割を担っていたという。この隼人城、奈良時代の養老四年(720)の「隼人の反乱」の舞台のひとつとなったとも言われている(隼人塚)。

戦国時代、九州一円にその版図を広げた島津四兄弟の武勇伝はよく知られている。その長男が島津家十六代当主の義久である。ちなみに二男は義弘、三男歳久、四男家久である。天正十五年(1587)、九州統一を目前にして豊臣秀吉による九州征伐を受けた義久は降伏して義弘を豊臣政権に対する当主とした。

文禄四年(1595)、義久は一線を退くかたちでそれまでの居城であった内城(鹿児島市大竜町)を出て富隈城(霧島市隼人町)へ移った。その後、秀吉が逝き、関ヶ原の戦いでは西軍となって徳川家康と戦うことになってしまったが、それは義弘の一存ということで義久は粘り強く徳川方との講和交渉を続けた。

慶長七年(1602)、義弘の子忠恒の上洛によって島津氏本領が安堵され、義久は忠恒を当主として隠居した。

慶長九年(1604)、義久は富隈城の北東約4kmの寒村地域に城を築き、京風の碁盤の目の町割りを造って城下町を整備した。これが国分城である。城自体は他の島津氏の城同様に館城であった。縄張は明人で帰化した易者の加治木衆中の江夏友賢(こうかゆうけん)が担ったという。

慶長十六年(1611)、義久が没すると国分城には亀寿姫が居住した。亀寿姫は義久の三女である。義久は男子に恵まれなかったため、天正十七年(1589)に義弘の次男久保を婿に迎え、亀寿姫を正室とした。しかし、久保は文禄の役(1593)で巨済島で病没してしまう。義久は義弘の三男忠恒(後に家久)を婿とし、未亡人となっていた亀寿姫を娶わせた。

しかし、忠恒と亀寿姫との夫婦仲は悪かったという。忠恒は義父義久の死を待っていたかのようにして亀寿姫を鹿児島城から追放した。そして義久の隠居城であった国分城へ追いやったのである。寛永七年(1630)、亀寿姫は国分城で亡くなった。

夫婦仲は良くなかったが、人柄は良く、庶民からは尊敬されていたらしい。「じめさあ」と呼ばれる石像が鹿児島市立美術館の敷地内にある。「じめさあ」とは亀寿姫の法号「持明院様」のことである。昭和四年(1929)に亀寿姫の像とされて以来、毎年命日の十月五日に化粧が施されて現在に至っている。

その後、国分城は藩直轄領となり、館に隣接して地頭館(現・国分高校)が置かれた。明治十年(1877)の西南戦争時には官軍の山縣有朋が駐留したという。


▲国分城跡は国分小学校と国分高校の学校用地となり、その南面に堀と石垣が残されている。

▲堀に架かる石橋。

▲堀と石垣。

▲国分城の絵図。天守や櫓の無い館城である。

▲朱門前の石橋。

▲市指定文化財の「朱門」。舞鶴城内陣にあったものを市内国分重久の細山田家が島津義久から拝領したものと伝えられたもので、昭和五十年(1975)に移転修復された。

▲小学校前の堀と石垣。

▲「島津義久公辞世の句」碑。"世の中の米と水とをくみ尽くしつくしてのちは天つ大空"



----備考----
訪問年月日 2023年7月24日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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