(はやとづか)
国指定史跡
鹿児島県霧島市隼人町見次
▲隼人塚は古代隼人の乱による犠牲者の鎮魂と
慰霊のために築かれたと伝承されている。
(写真・三基の石塔と四天王石像から成る隼人塚。)
古代隼人の乱
隼人塚の名称は明治三十四年(1901)の「考古界」に「大隅の隼人塚」としての報告が初見とされ、次いで明治三十六年(1903)鹿児島神宮神主であった桑原公幸氏による「隼人塚(一名熊襲塚)」の報告があり、それまでは熊襲塚または軍神塚、将軍塚(陸軍参謀本部地図)などと呼ばれていたらしい。気になるのはその創築年代と由来である。 伝承では養老四年(720)の隼人の反乱における戦死者の鎮魂のための塚とされ、鹿児島神宮の「隼人浜下り神行祭」の際にはこの隼人塚の前で「隼人舞」が奉納されている。この神事の最期は放生会で締めくくられている。放生会というのは大分県の宇佐八幡宮で、隼人の慰霊のために蜷(にな)や貝を放流したことに始まっている。現在、鹿児島神宮では鯛を放流しているようだ。「隼人舞」「放生会」いずれも隼人の乱に関連している。 隼人とは南九州地域に住していた人々のことで大和朝廷の統一の過程で幾度か抵抗していたことが「続日本紀」の文武天皇、元明天皇、元正天皇時代のこととして記されている。 文武天皇四年(700)に薩末比売(さつまひめ)、久売(くめ)、波豆(はず)、衣君(えのきみ)、肝衝難波(きもつきのなにわ))等が兵をもって?国使(くにをもとめるつかい)刑部真木らを脅したとある。刑部真木等が何らかの調査(戸籍作成か)にやってきたのであろうが、これを地元の有力者らが武力をもって追い返したものであろう。後日、朝廷は大宰府に命じてこれを罰した。 大宝二年(702)、薩摩の多?(たね)が朝廷の意に従わなかったため兵を発してこれを征した。この結果、戸籍を作り吏(役人)を置くことになり、薩摩が律令体制下に置かれることになる。 和銅六年(713)には大隅国が置かれ、隼人征討に功績のあった将軍や士卒千二百八十余人に勲が授けられた。 養老四年(720)、大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が地元勢力(隼人)に討たれる。朝廷は大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍、副将軍に笠朝臣御室、巨勢朝臣真人らをあて一万余の軍勢を派遣してこれを鎮圧した。隼人側は七ケ所の城に立て籠もり、戦いは一年数ヵ月続いて朝廷軍の勝利で終わった。軍団が帰還した際には斬首・捕虜合わせて千四百余人あったと記されている。この戦いが長期にわたる激しい戦いであったことから、「隼人の反乱」と呼ばれている。この反乱の後、隼人の慰霊・鎮魂のために宇佐八幡の「放生会」の儀式につながって行く。 では隼人塚の築かれたのもこの頃かと思いたいが、そうではないらしい。平成6年(1994)から平成9年(1997)にかけて4次に渡る遺跡確認調査の結果、埋没していた石塔や石像が発見され修復復元の末に現在のようになっているが、創築年代の特定にまでは至っていないのが現状である。最も有力な説とされているのは大隅国分寺跡の石塔の記年銘である康治元年(1142)などから平安時代後期のものとの見方である。 いずれにせよ、この塚を通して古代日本の大和朝廷による律令体制の構築過程の一端が現実味を帯びて垣間見えるような気がするのは私だけではないだろう。 |
▲持国天石像。 |
▲増長天石像(手前)と広目天石像(奥)。 |
▲隼人塚史跡館。 |
▲隼人塚周辺は隼人塚史跡公園として整備されている。 |
▲公園内に建つ与謝野晶子の歌碑。 |
▲隼人塚西側より見る。 |
▲塚前に建つ史跡碑。 |
▲隼人塚正面より。鹿児島神宮の浜下り神事の際にはここで隼人舞が奉納されている。 |
▲隼人塚東側より。 |
▲塚前の広場は歴史体験広場となっている。 |
▲史跡公園の案内図。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2019年7月27日 |
主要参考資料 | 「国史跡隼人塚」 |
↑ | 「隼人族の抵抗と服従」他 |