■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2019 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。 |
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10月20日(日)曇/高梨城(長野県中野市) 高梨城は「高梨氏館跡」として国指定史跡に指定されている方形城館跡である。その名の通り、北信に古くから勢力を保ち続けた高梨氏の根拠地である。 高梨氏の名が具体的に表れるのは源平合戦の頃からで、木曽義仲に従っていたらしい。南北朝期には北朝方として活躍、戦国期には村上氏とともに北信の有力国人としての立場を確固としていた。 高梨氏の全盛期の当主政盛によって当所に城館が構えられ、孫の政頼の代に完成したとされている。上杉謙信と武田信玄の抗争期には、高梨氏は古くからの縁もあって謙信方に従っていた。武田勢の圧迫によって高梨城を退去して支城の飯山城へ後退していた時期もある。 結局は上杉景勝の代に復帰したもののやがて会津転封に従わざるを得ず、ついに北信の地を離れることになるのだ。 高梨氏にまつわる昔話として「黒姫伝説」がある。ネットで検索すれば話の内容はすぐに分かる。たまには昔話の世界に浸るのもいいかもしれない。 |
↑高梨城 堀と土塁 ↑庭園遺構 |
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10月19日(土)小雨/飯山城(長野県飯山市) 東名高速、中央道、長野道、上信越道と車を信越国境の飯山市まで進めた。 飯山城は川中島をめぐる戦いの際に上杉謙信がその出陣の拠点とした城でもある。元々は信濃源氏の泉氏が居館を置いたことに始まるが、戦国争乱の時代になると謙信の属城となり、謙信みずから縄張りしたと言われる。また、その後継景勝もこの城を修築したとされるほどにこの城は越後上杉氏にとっては重要な城であったのだ。 慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ移った後は城主が目まぐるしく変転し、江戸中期に本多氏が封ぜられたことによって定まった。 幕末、旧幕府軍の残党で結成された衝鋒隊が城下に進出して来た。小藩の飯山藩ではこの対応に苦慮したようである。実力で追い払うほどの兵力もなく、このまま城下を素通りしてくれればよいがと当り障りのない態度をとっていたのだが、衝鋒隊は居座り続けてしまったのである。そのうち、討幕軍の松代藩が城下に布陣、戦争が始まった。飯山藩も腹を決めて松代藩に協力することになる。衝鋒隊も飯山城に向かって攻撃したが多勢に無勢ではままならず、城下に放火して退散してしまった。「飯山戦争」と呼ばれ、戊辰戦争で信州国内では唯一の戦場となったことで知られている。 |
↑本丸虎口石垣 ↑復元城門 |
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9月14日(土)晴/滝山城(東京都八王子市) 昨年暮れに八王子城を訪れたが、その関係で滝山城のことが気になっており、本日の訪城となった次第である。 滝山城は武蔵守護代大石氏が大永(1521-28)の頃に築いたと従来考えられていた。しかし、近年では大石氏が後北条氏に降って北条氏照を養子に迎えた後に上杉謙信の関東進攻に備えて築かれたものと言われている。その後、永禄12年(1569)には武田信玄の進攻を受けて、滝山城は激しい攻撃にさらされた。この戦いではからくも武田の攻撃を凌いで落城を免れたが、城の不備を理由に氏照は八王子城を築城してそちらに本拠を移すことになる。 たしかに滝山城は八王子城のような峻嶮な山城ではない。大手口からの比高はわずかなものである。とはいえ、一旦城域に踏み入ると大規模な空堀と土塁の存在に圧倒される。都市部の地域にあって開発の影響を受けることなく戦国期の姿が保たれているのだ。 大手口からの基本的な散策路は舗装されているので歩きやすく、路に迷うこともない。千畳敷から二の丸、中の丸、本丸へと進む。土橋、空堀、土塁を眺めながら約30分ほどで本丸へ到着できる。中の丸からは城の北側が展望できる。眼下に多摩川が流れ、その向こうにはマンションのビル群が立ち並んでいる。 かつて武田信玄が本陣を置いたのは多摩川の対岸であったらしい。信玄の目標はあくまで小田原城であったのだ。滝山城など軽く衝いておけばよい、と考えていたのかもしれない。 |
↑滝山城 本丸虎口 ↑千畳敷南側の空堀 |
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8月12日(月)晴/妻籠城(木曽郡南木曽町) 中山道の宿場町として栄えた妻籠宿。現在は伝統的建造物が残り、歴史的風情を感じられる観光地となって外国人にも人気のスポットであるようだ。その妻籠宿を見下ろす山上に妻籠城がある。 妻籠城の創築は明確でないが戦国期には木曾氏が支配地域である木曾谷の南部を維持するために整備した山城である。 この城が脚光を浴びたのは天正12年(1584)の小牧・長久手合戦の際である。木曽谷の主である木曽義昌は徳川家康を離反して羽柴秀吉方についた。この事態に激怒した家康は飯田城主の菅沼定利に木曽攻めを命じた。菅沼定利は保科正直、小笠原信嶺、諏訪頼忠らと共に妻籠城を最初の目標として攻め寄せたのである。 妻籠城を守るは木曽義昌の重臣山村良勝である。良勝は寡兵よく奮戦してついに徳川勢を撃退してしまう。 その後、慶長5年(1600)には関ケ原へ急ぐ徳川秀忠の軍勢が妻籠宿に達し、この妻籠城にて秀忠は東軍勝利の報を受けたという。本戦に間に合わなかった秀忠はこの城で何を思ったのであろうか。 |
↑妻籠城 主郭 ↑妻籠城 土橋 |
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7月27日(土)晴/隼人塚(鹿児島県国分市) 墓参を兼ねての鹿児島行き。今回寄ったのは国指定史跡「隼人塚」である。 史跡一帯は公園として整備され、塚には三基の石塔とその四隅に配された四天王の石像が建っている。平成11年(1999)に復元整備されたものである。それまでは石塔の三段目以上は倒壊しており、石像も塚のあちこちに半身が土中に埋もれた状態であったようだ。 伝承では大和朝廷に反して討伐された隼人族の霊を鎮めるために建立されたものと言われているが、気になるのはいつ頃に築造されたのかである。 大宝(701-703)の頃から隼人と朝廷側との争いがたびたび起きていたようで、養老4年(720)には一年以上にわたる戦いが起きており、朝廷軍も1万人の兵を動員して鎮圧したとされている。この時、斬首、捕虜の数1400余人であったと言われている。 隼人鎮魂の遺跡であるなら奈良時代の創築かと思いたいが石塔の様式などから平安後期のものとの見方が大勢であるようだ。 いずれにせよ、この遺跡を通して古代史の一端を垣間見ることができたのであるから、それだけでも良いと思った。 |
↑隼人塚 ↑隼人塚四天王石像(持国天) |
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5月1日(水)曇/真田氏本城、真田氏館(上田市真田町)、龍岡城(佐久市) 家族旅行の二日目。本日から元号が「令和」となり、新たに天皇陛下が御即位となる。 菅平高原のホテルを出てしばらく山間のドライブを楽しむ。高原の空気が美味い。身体の中が浄化されるような気分である。 真田の里に出て「真田氏本城」跡へと向かう。かつては松尾城と呼ばれていた真田氏の城である。山城とはいえ、山上まで車で行くことができるのでありがたい。 城史の詳細については不明な部分が多いらしい。一般的には天文年間(1532-55)に真田幸隆が築いたものとされている。いずれにせよ真田氏はこの地を根拠地として歴史の表舞台に躍り出てゆくことになるのである。 城自体は山頂の尾根部分を階段状に三つの曲輪で構成する簡単な構造である。真田の里や周辺諸砦の監視や掌握が目的であって存亡を賭けての籠城戦を想定したものではないだろう。 当然、平素の居館は里の内にあった。真田氏館跡は現在、御屋敷公園として保存されている。敷地の周囲には土塁が巡らされており、本曲輪跡には皇大神宮の社殿が建てられている。真田昌幸が上田城に移る際に勧進したものという。 真田氏が武田信玄の麾下として各地の戦場で武功をあげ、また上州への進出を図り、はたまた小県郡内の平定を成し遂げるなどしたが、すべてはこの館内が起点となっていた。真田氏の戦国を生き抜いた智謀と謀略の源の地であったともいえる。 御屋敷公園に隣接して真田氏歴史館が併設されており、真田関連の史料が多数展示されている。 真田の里を出た後、上信越道から中部横断道を経て佐久市へ向かった。佐久市田口に龍岡城がある。国史跡龍岡城五稜郭と呼ばれている城跡である。五稜郭といえば函館であるが実は長野県にも存在していたのである。 龍岡城五稜郭は函館の五稜郭の三分の一程度の規模であるが、星形の稜堡を備えた西洋式城郭である。築城者は大給松平氏最期の藩主である松平乗謨(のりかた)である。洋学に精通した殿様であったようだ。幕末の欧米列強の進出に危機感を抱いた乗謨が自身の得た知識を具現化しようとした城である。 実際に城址を歩いてみると堀の狭さや陵堡の高さなど全体的に小規模な感は拭えない。これで砲火を交える近代戦に耐え得るとはとても思えないが、幕末の小藩が国防の情熱に湧き上がる思いをこの城に込めたことだけは確かである。 現在は小学校の用地となり、片隅に御殿に付随していた「お台所」の建物だけが残されている。 |
↑真田氏本城 入口 ↑真田氏本城 本郭土塁 ↑真田氏館 大手口土塁 ↑龍岡城 陵堡先端 |
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4月30日(火)曇/上田城(上田市) GW家族旅行で今回は長野県上田市へと向かった。今回は私の独断で城跡優先の旅程を組んでしまった。 ということで、本日は一路上田城を目指しての出発だ。 上田城は言うまでもなく戦国期の武将真田昌幸によって築かれた城である。激動の天正10年(1582)、武田の滅亡によって昌幸は独立の道を歩み始める。織田、北条、徳川とその所属を替えつつも小県郡と上州吾妻郡の領地を守り続けた。そして小県経営の拠点として築いたのが上田城であったのだ。 午前中は雨であったが上田市内に入った昼過ぎには上がっていた。とはいえ今にも降りそうな曇り空である。城の南側の駐車場が満車状態であった。駐車待ちのためにかなり待たされ、散策を開始した時には16時近くになっていた。城内の博物館への入館が16時半までなので城内散策は簡単に済ましてしまった。 城内に真田神社があるが、長蛇の行列である。今日は「平成」最後の日とあって御朱印目当ての大行列なのだ。 博物館見学後、本丸の堀の外側をぐるりと一周して西櫓に至り、そこから駐車場へ戻った。上田城の城としての迫力は何といっても南側の尼ヶ淵の断崖から見上げた情景にある。かつて千曲川の激流が削り出した段丘の崖である。 |
↑上田城 南櫓と尼ヶ淵 ↑上田城西櫓 |
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4月20日(土)晴/和田城(飯田市南信濃) 「どこか行きたいところがあれば付き合いますよ」とめずらしく妻から声をかけてきた。ここ数ヵ月は体調も思わしくなく、城めぐりも途切れていたので気分転換も兼ねて出かけることにした。 浜松から愛知県に入り、国道151号を飯田方面に向かって山間のドライブを楽しみながら長野県に入る。しばらくして国道418号を東進して天竜川を渡り、支流の遠山川に沿ってさらに進むとかつての遠山郷で秋葉街道の和田宿に至る。道の駅「遠山温泉郷かぐらの湯」にて昼食を済ませ、和田城跡へ向かった。 和田城は戦国期に遠山景広が築いたとされる。景広は武田氏に属して軍役を果たし、武田氏滅亡の際には一族を率いて高遠城に参じて織田勢との戦いに加わり、多くの戦死者を出している。二代景直は徳川家康に属して加増を受け、大坂の陣などに出陣している。三代景重と続くが、程なくして死去、以後天領となる。 城址には「遠山郷土館和田城」と遠山氏菩提寺の龍淵寺が建っており、城としての遺構は残されていない。龍淵寺の本堂の建つ辺りが本丸で、その北西に突出した細長い平場に観音堂があるが、そこは出丸跡とされている。 郷土館では「遠山の霜月祭」の紹介が主のように感じられた。祭りで使用される様々な神の面が展示されていた。 |
↑遠山郷土館和田城 ↑本丸跡の龍淵寺 |
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4月13日(土)晴/欠下城(浜松市) 浜松市有玉に欠下城跡がある。 小天竜と呼ばれる馬込川の西岸で川岸まで段丘が迫っており、その地形を利用して城砦が築かれたものと思われる。段丘の西側はそのまま三方原台地が広がっている。 城址自体は東名高速道路の建設によって消滅してしまったが、その際の発掘調査等によって空堀と土塁の遺構が確認されている。資料の実測図を見ると南向きの舌状丘陵の北側に虎口を設ける形で土塁と空堀が描かれている。ちょうどこの遺構部分が高速道路となり、南側の丘陵部分には工場が建っている。 元亀3年(1572)に二俣城を落とした武田信玄が三万の大軍を率いて浜松城に迫る勢いで南下したが、途中で進路を西に変えて三方原台地に上がっている。 その場所が欠下城のあるところと言われている。城の西側の台地上一帯を大菩薩山と呼び、その坂道が「大菩薩の坂」と名付けられている。大菩薩山一帯にも城山の地名が残されており、欠下城との関連も考えられるところでもある。 |
↑欠下城 手前は馬込川、右の 橋は東名高速道路、対岸の工場 の建つ辺りが城址。 ↑城址標柱 |
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1月2日(水)晴/福谷城(みよし市) 本年の年頭訪城は近場の福谷城である。例年では長距離で出掛けることが多かったのであるが、歳のせいかなぁ。近場で済ませてしまった。 福谷の読みは「うきがい」である。愛知県みよし市にある城である。この辺りは尾張国と三河国の国境地帯であった。この城は戦国当時は駿河の今川氏の影響下にあった松平氏が尾張の織田氏の進出に備えて整備した最前線の城であったことになる。 元々は地域の土豪原田氏重の居城であった。この原田氏を今川方に抱き込むため、松平重臣の酒井忠次が派遣されて城を改修したものであろう。弘治二年(1556)には織田氏の柴田勝家がこの城へ攻め寄せたとされ、大久保忠勝らが駆け付けて柴田勢を撃退したと伝えられている。 現在は主郭部分とその土塁跡などが史跡として保存されている。 |
↑福谷城 主郭入口 ↑主郭と土塁 |
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