(さなだしほんじょう)
市指定史跡
長野県上田市真田町長
▲真田氏本城は真田郷の中央部にあり、真田氏が
上田城に移るまでの居城であったと見られている。
(写真・本郭土塁。)
真田の里の城
この城の呼び名は真田町(昭和47年当時)がこの城跡を文化財(史跡)として指定する際にその名称を「真田氏本城跡」としたことによる。理由は真田地域の中心部にあって町内の他の山城に比して大規模であり、熊久保集落の上方の山地から水を本郭に入れるなどの高度な築城技術を示しており、真田氏の本拠としてふさわしい、ということらしい。 築城時期に関しても遺構の様子から鎌倉期の様式が一部見られるということ以外はよく分からない。砦程度のものはその当時から存在していたものであろうが、城郭として整備されたのは真田氏がこの地域の領主としての基盤を固めた戦国期のことであることは間違いない。 天文十年(1541)五月、武田信虎、村上義清、諏訪頼重が連合して小県郡へ進攻してきた。上田盆地に本拠を置く海野棟綱とその一族(祢津氏、矢沢氏等)がこれに抵抗(海野平の戦い)したが総崩れとなり敗退した。その後、小県は村上義清の支配下に置かれ、砥石城がその拠点として改修された。 一方、郷土を追われた海野棟綱は後ろ盾であった関東管領上杉憲政を頼って上野国へ逃れた。この逃避行に随行した面々の中に真田幸綱(幸隆)がいた。幸綱の出自については諸説あって確定しないが、棟綱の子で一族真田氏の名跡を継いでいたとも言われている。ともに箕輪城主長野業正のもとに寄寓した。 七月、上杉憲政は長野業正を大将とする軍勢を佐久郡へ進撃させたが小県郡の奪回には至らず撤収している。この進撃に真田幸綱も参陣していたものと思われるが、旧領の回復が果たせなかったことで苦渋に耐える日々を送ることになる。後に武田晴信に仕えて旧領回復を果たすことになるが、その仕官の時期や経緯には諸説あって明確ではない。天文十二年(1543)から天文十七年(1548)の間であると思われる。 武田氏に仕官した真田幸綱は信濃先方衆として活躍、特に対村上氏の戦線における調略などで積極的であったと思われる。天文十九年(1550)に武田勢による砥石城攻めが開始されるが、これに先立って幸綱は武田晴信から「諏訪方・横田遺跡上条、都合千貫」を与えるとの誓紙を得ている。いずれも現在の上田市域の地であろうと思われるが、現状は村上義清の支配下にある。つまりは旧領復帰を認めるから励めということである。ところが、今回の砥石城攻めでは武田勢が敗退(砥石崩れ)して幸綱の旧領回復は頓挫してしまう。 翌二十年(1551)に真田幸綱は独力で、しかも一日で砥石城を乗っ取ってしまった。どのような方法を用いたのかは明確ではないが様々な謀略を駆使したものと思われる。 晴れて旧領復帰を果たした幸綱は砥石城を最重要拠点としたと思われるが、やはり山間の真田の里が懐かしかったに違いない。この真田氏本城跡にたたずみ里の風景を眺めて心を癒していたのではないだろうか。その後幸綱は晴信の股肱の臣の一人として各地の戦場を疾駆し、とくに上州進攻にあたっては主導的な役割を果たした。天正二年(1574)、没。武田信玄(晴信)の死の翌年であった。 幸綱は武田晴信に臣従する際に家紋と旗印を六連銭に改めたと言われる。六連銭は「三途の川の渡し銭」でもある。不惜身命、事に臨んでは常に死を恐れず、全身全霊を賭して目的を達成する。智謀機略を駆使しつつも戦場にあっては勇猛果敢に、その気概と心意気は次代の昌幸、信繁(幸村)へと受け継がれて行くことになる。 |
▲城址入口。 |
▲本郭と土塁。 |
▲見学者用駐車場。 |
▲城址入口。 |
▲本郭に至る南側は緩やかな傾斜地となっている。 |
▲この傾斜地も城域であったと思われるが、後世に畑地などに改変された可能性もあるようだ。 |
▲傾斜地の南方に見える天白城。 |
▲眼下に広がる真田の里。 |
▲真田氏本城の北方に見える松尾古城。 |
▲本郭土塁下に立つ城址碑と説明板。 |
▲「山嶽幾重連陣営 縦横布置緻行兵 今朝錦?一望遠 覇業遥思古本城」。 |
▲本郭の土塁。 |
▲本郭から北側尾根上に郭が連なる。 |
▲本郭から一段下がった二郭。 |
▲ニ郭からさらに一段下がった三郭。 |
▲三郭西側下に巡る腰郭。 |
▲土塁は本郭南縁のみに見られる。 |
▲二郭に設置された縄張図。 |
▲二郭西側法面に残る石積み跡。。 |
▲二郭と本郭の段差。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2019年5月1日 |
主要参考資料 | 「別冊歴史読本真田一族」 |
↑ | 「真田町文化財・真田氏城跡群」 |
↑ | 「真田三代全国史跡オールガイド」他 |