龍岡城
(たつおかじょう)

国指定史跡・続百名城

            長野県佐久市田口    


▲龍岡城は国内二例目の星形陵堡の洋式城郭である。幕末、三河奥殿藩が本領移転を
幕府に願い出、洋式軍制に明るかった藩主松平乗謨が新陣屋として築造したものである。
(写真・北側陵堡の突端部。)

信州の五稜郭

 三河国奥殿藩一万六千石の第八代藩主松平(大給)乗謨(のりかた)は文久三年(1863)に幕府大番頭に登用されたのを機に本領移転を願い出た。それまでの本領三河の石高は四千石で、一万二千石は信濃佐久郡にあったのである。

松平乗謨は洋学に熱心で洋式築城技術に強い関心を持っていたようで、幕府の移転許可を得ると新陣屋を陵堡式星形要塞の形で建設を開始した。国内では函館五稜郭に次ぐ二番目の星形要塞五稜郭となる。規模的には函館五稜郭の約六分の一であり、堀幅も狭く、銃砲戦主体の近代戦闘に耐えうるとは思えないが、藩の兵制もフランス式に改めるなどして洋式軍制の具現化を実行したという点に於いては評価されるべきものであろう。乗謨は慶応元年(1865)に幕府の陸軍奉行、翌年には老中・陸軍総裁となり、幕府陸軍の軍制に関与している。

龍岡城(五稜郭陣屋)の築城は信州移転直後の元治元年(1863)三月より開始され慶応三年(1867)四月には竣工したとされ、総費用四万余円、普請奉行は家老の出井勘之進であった。砲撃の振動や衝撃に耐えうるような石垣の工事に重点が置かれたようで、伊那高遠藩が養成した洋式築城の石工を招いて建設したという。しかし、陣屋格の大名であったため、天守や櫓などの施設が作れず、城内には藩主の住居と政務を兼ねた御殿と藩士の番屋、太鼓楼、火薬庫などが建てられたに過ぎない。また幕閣として要職にあったためか、築城にかける費用の捻出も難しかったようで、城の南西側の堀は未完成の状態で幕末に至っている。

慶応四年(1868)、戊辰戦争が始まると乗謨は陸軍総裁を辞して新政府に帰順した。その後龍岡藩に改称し、明治二年(1869)龍岡藩知事となり、明治四年(1871)に廃藩となる。維新後、乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名して明治十年(1877)の西南戦争時に設立された博愛社(日本赤十字社の前身)の創設に寄与している。


▲大手橋北西側の堀と石垣。布積み石垣の上部はわずかに堀側へ突出しており、武者返しとなっている。

▲廃城後、郭内に唯一残った御殿の一部お台所。明治期に学校として使用され、昭和4年(1929)現在地に移転、昭和36年(1961)に半解体復元工事が実施された。

▲駐車場に併設された休憩施設「五稜郭であいの館」。

▲北陵堡北東面屈曲部分。

▲北陵堡北東面。

▲陵堡北東部の出入り口が大手口となり、石碑や説明板が立つ。

▲大手口に建つ城址碑。

▲昭和9年(1934)文部省による説明と注意書き。

▲大手橋東側の堀と陵堡石垣。

▲北東部出入り口が大手口となっている。

▲大手口を入ると田口招魂社が鎮座する。

▲郭内の御殿跡地は田口小学校の校舎が建ち、校庭となっている。

▲南東部出入口の通用門口。

▲南東陵堡東面。

▲北西部出入り口の黒門口。

▲北陵堡西面。

▲東陵堡北面。
----備考----
訪問年月日 2019年5月1日
主要参考資料 「長野の山城ベスト50を歩く」
現地パンフ・他

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