真田氏館
(さなだしやかた)

県指定史跡

長野県上田市真田町本原


▲真田氏館は真田幸綱(幸隆)が真田郷支配の居館として新たに築いたもの
と思われる。真田昌幸による上田城移動まで真田氏の居館であったとされる。
(写真・真田氏館大手門跡。)

真田家中興の地

 地元では「御屋敷」と呼ばれ、真田氏の上田築城以前の居館跡と見られている。中世豪族の居館遺構として貴重であるとのことで長野県の史跡にも指定されている。

築造は永禄(1558-70)の頃とされており、あまり明確ではないようだ。真田幸綱(幸隆)が村上義清らによって真田の地を追われたのが天文十年(1541/海野平の戦い)で、砥石城を独力で攻め落として真田の地に復帰したのが十年後の天文二十年(1551)である。荒廃した館跡に立った幸綱はまずは館の復興に取り掛かったことは言うまでもない。この当時の館は内小屋(御屋敷の北北西約2km、信綱寺付近)にあったと言われている。

しかし、内小屋の館は真田郷の北側に偏っており、しかも手狭であったため、幸綱は郷の中央部に新たな居館を構築するに至るのである。それがこの真田氏館つまり御屋敷である。周辺の山上には真田氏本城、天白城、松尾古城、砥石城などの城砦群が防御を固め、館周辺には武家屋敷や城下町が形成された。

その後、幸綱は武田晴信(信玄)の重臣の一人として活躍、天正二年(1574)に死去。信玄の死の翌年であった。真田家は嫡男信綱が継いだが、天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで弟昌輝とともに壮絶な討死を遂げてしまう。そこで真田家を継ぐことになったのが武藤家を継いでいた三男昌幸であった。

真田家に復帰した昌幸は武田勝頼滅亡後も織田、北条、徳川、上杉と機に応じてその所属を変えながらも真田の地を守り続けた。天正十一年(1583)には上田城の築城に取り掛かり、館や城下町もそっくり上田へ移動することになる。

館跡にはその荒廃を防ぐために真田昌幸が皇大神社を勧進したと伝えられている。


▲真田昌幸が勧進したと伝わる皇大神社。

▲東門跡の虎口。

▲真田氏歴史館。

▲歴史館裏の駐車場。

▲真田氏歴史館前の案内図。

▲東門付近の土塁。

▲東門跡。

▲土塁。

▲南面の土塁。

▲東曲輪跡に勧進された皇大神社。

▲大手門跡。

▲大手門付近に立つ説明板。

▲西曲輪。

▲西曲輪。

----備考----
訪問年月日 2019年5月1日
主要参考資料 「真田町文化財調査報告書・真田氏城跡群」他

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