名塚砦
(なづかとりで)

愛知県名古屋市西区名塚町4


▲名塚砦は織田信長が弟信行の謀反に際して急造した砦で佐久間盛重を守将とした。
(写真・砦跡の白山神社)

信行謀反

天文二十三年(1554)、織田信長(21歳)は守護斯波義銀を擁して清州城の下四郡守護代織田大和守信友を滅ぼし、その居城を那古野城から清州城へと移した。清州は尾張国守護斯波義銀の居所であり、守護所である。清州城の主となった信長は守護の権威を利用しつつ国内の統一を進めて行くことになる。

そこで信長の前に立ちはだかったのが弟の勘十郎信行(信勝)である。信行は父信秀亡き後の末森城と家臣たちを引き継いだ。その家臣たちの筆頭が柴田権六勝家である。信行は品行方正で荒々しい信長とは正反対であった。そのせいか家臣受けもよく、母土田御前も信行の方を可愛がっていたという。

弘治二年(1556)、信行は信長の宿老で那古野城代となっていた林佐渡守秀貞とその弟の美作守通具を抱き込んだ。林兄弟が信行側に寝返ったとの風説は信長の耳にも達した。この年五月、信長は弟秀俊と二人して那古野城を訪れている。事の真相を直に確かめようとしたのであろうか。この時、林通具は信長暗殺を兄秀貞に進めた。しかし秀貞は「三代相恩の主君を討つことはできぬ」と何事もなく帰したと「信長公記」にある。

その後、林兄弟は信行擁立の準備を進め、荒子城、大秋城、米野城を味方に引き入れた。八月に入ると信長の直轄領である篠木三郷(春日井市)を横領してついに挙兵した。

八月二十二日、信長は庄内川南岸の名塚に砦を急造、佐久間大学盛重を守将として兵を置いた。これが名塚砦である。林兄弟の那古野城から北へ約3kmのところである。ちなみに佐久間盛重は四年後の桶狭間合戦時に丸根砦を守って討死を果たした。

砦急造の二日後、織田信長は林通具と柴田勝家の軍勢と稲生原(稲生原古戦場)で戦うことになる。

現在、砦跡は白山神社となり、鳥居脇に説明板が立つのみである。稲生原の古戦場跡はここから南へ200mほどの所で、庚申塚が建てられている。


▲白山神社鳥居の傍に立てられた砦跡の説明板。

▲白山神社の境内。砦としての遺構はない。

▲「信長攻路」の銘板。信長の清州城から桶狭間に至る街道沿いに設置されている。

▲林秀貞の居城の那古野城跡。

▲織田信行の居城の末森城跡。

----備考----
訪問年月日 2023年2月21日
主要参考資料 「改訂信長公記」他

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