(いのうがはらこせんじょう)
愛知県名古屋市西区名塚町1
▲稲生原古戦場は織田信長と弟信行による合戦場で、信長の勝利で終わった。
(写真・古戦場跡の庚申塚)
雨中火花を散らし
弘治二年(1556)八月、織田信長の弟勘十郎信行(信勝)は信長の宿老で那古野城代の林佐渡守秀貞とその弟美作守通具を味方に引き入れ、信長の直轄領篠木三郷(春日井市)を横領して信長打倒の兵を挙げた。 これに対して信長は二十二日、庄内川南岸の名塚村に砦を急造して信行勢の襲来に備えた。砦には佐久間大学盛重を守将として配した。 二十三日、この日は雨であったが、信行の家老柴田勝家が末森城を出撃して千余の兵を東より進め、林通具が七百余を率いて那古野城を出撃、南から名塚に迫った。 二十四日、この日も雨。信長は清州城を出陣して名塚砦に入った。兵は七百人ほどである。信長は砦を出て村の東側に六、七段の布陣で待ち構えた。 午の刻(昼12時前後)、信長勢は柴田勢に向かって戦闘を開始した。戦いは最前列の足軽による長槍隊の叩き合いで始まる。この当時の足軽用の長槍は二間半(約4.5m)であったのに対し、信長は三間半(約6.3m)の長槍を持たせた。長い方が相手の戦闘圏外から攻撃を加えられ、叩き合いでも振り下ろした時の威力が大きくなる。 柴田勢を撃退した信長勢は次いで南に布陣する林通具の軍勢に攻め掛かった。信長の家臣黒田半平が林通具と斬り合いとなり、半平は左手を斬り落とされてしまう。両者息切れしたところへ信長みずから乗り込んで通具を突き伏せ、首をあげたという。主将林通具が討ち取られたことで林勢は戦場から潰走して逃げ去った。「雨中二刻半、火花をちらし取り合い」と「武功夜話」にある。雨の中、両軍泥だらけになっての死闘であった。 この日、信長は清州城へ帰陣。翌日、首実検を行う。その数、四百五十余におよんだという。 敗走した信行方(柴田、林の軍勢)は那古野城と末森城に籠城して信長の襲来に備えた。 数日後、信長は末森城攻めを陣触れして城を囲んだ。信長勢は町屋を放火、裸城にして清州城へ帰陣した。 事態の収拾に動いたのは末森城に居住する土田御前であった。土田御前は信長と信行の生母である。土田御前は信長の家臣村井長門貞勝(後に京都所司代)と島田所之助秀満を末森城に呼び、関係者の謝罪と助命を願い出た。 信長は「稲生の事は雨水の如く流れ去り申した」とすべてを許した。この時、土田御前は信行と柴田権六勝家、津々木蔵人(信行近臣)を同道して清州城に赴いて御礼、林佐渡守秀貞も許してこれまで通り家老とするように願い出た。 林秀貞はその後信長の筆頭家老として仕え続け、家督が信忠に譲られると信忠付きの家老となっている。ところが天正八年(1580)に突然、織田家を追放された。理由のひとつに稲生合戦時の信行擁立の謀反が挙げられていた。 合戦の翌年弘治三年(1557)、勘十郎信行は岩倉城の上四郡守護代織田伊勢守信賢と結び、再び信長に対して謀反を企む。柴田勝家がこれを信長に報告、十一月二日に病に伏す信長の見舞いと称して信行を清州城に案内した。信行は病臥する信長を討つ絶好の機会と考えていたのであろうか。しかし清州城北櫓に通された信行は待ち構えていた河尻秀隆らによって討ち取られてしまった。 |
▲古戦場跡の庚申塚と戦没者供養塔。 |
▲古戦場跡を示す説明板。 |
▲庄内用水路の東沿いの一画に庚申塚がある。 |
▲古戦場跡の庚申塚入口。 |
▲稲生合戦戦没者供養塔。 |
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訪問年月日 | 2023年2月21日 |
主要参考資料 | 「改訂信長公記」 |
↑ | 「武功夜話1」他 |