古渡城を居城とする尾張の実力者織田信秀は宿敵美濃の斎藤道三と和睦して濃姫を信長の室に迎えた。後顧の憂いを断った信秀は東の大敵今川氏との対決に備えて末森城を築き、古渡城を破却して居城を移した。天文十七年(1548)のことである。
天文四年(1535)の「守山崩れ(守山城)」で三河松平勢は親織田派と反織田派に分裂して弱体化した。天文九年(1540)には安城城を落とし、庶長子信広を城主として固めた。しかし、松平広忠の要請を受けた今川氏の進出で情勢は逆転しはじめる。信秀が末森城に移転した天文十七年には小豆坂の戦いで苦戦を強いられ、その翌年には安城城が今川勢によって奪われてしまった。この時に城主であった信広と織田の手中にあった竹千代(徳川家康)の交換が行われたのは有名な話である。
尾張国内における守護代織田氏との対立や今川氏による外圧の中、天文二十年(1551/没年には諸説ある)に信秀は流行病にかかり、ここ末森城で没した。享年四十二歳であった。
信秀の葬儀で突然現れた信長が抹香を投げつけて去って行ったという逸話はあまりにも有名だが、それに対して弟の信行(信勝とも)は正装して礼儀正しく振舞い、家中の信望を集めたといわれる。
末森城は父信秀、母土田御前と共に同城を居所としていた信行が城主を継いだ。天文二十四年(1555)、叔父の守山城主織田信次の家臣が誤って信行の弟秀孝を射殺してしまった際には信行自ら軍勢を率いて守山城下を焼き払い、城内に乗り込んでいる。事態は信長の計らいで落着したが、武将としての行動力を見せつけた信行の信望は増々高まった。
衆望を集めた信行は弘治二年(1556)八月、林秀貞、同通具、柴田勝家らを配下にしてついに信長打倒の兵を挙げた。
この前年、信長は清州守護代織田信友を滅ぼして清州城を居城としていたがその勢力はまだ小さく、兵力は七百人ほどであった。信行勢は千七百人ほどで、信長勢を圧倒していた。両者は稲生原に戦い、信行方が優位に戦いを進めた。柴田勝家らは信長本陣に攻めかかった。信長は危機的状況に陥ったが、攻め寄せる敵兵に大声で怒鳴りつけたという。何を怒鳴ったかは分らないが守護斯波義銀を傀儡化していたことから「守護家に弓引く逆賊めがっ」とでも言ったのであろうか。柴田勢は算を乱して逃げ散ったという。反撃に転じた信長勢は林通具以下主だった部将を斃し、四百五十人余を討取って勝どきを上げた。
稲生原の戦いで惨敗した信行は末森城に籠城して信長になおも抵抗したが、母土田御前の仲裁で許され、柴田勝家、林秀貞らも謝罪して信長に仕えることになった。
翌弘治三年(1557)、信行の反信長感情は収まらず、上四郡守護代織田信安(岩倉城)に通じて再度の謀反を画策していた。この情報は柴田勝家の通報によって信長の知るところとなり、信行は破滅の時を迎えることになる。
十一月、信長が病に倒れたとの報せを受けた信行は見舞いのために清州城へ赴いた。あわよくば弱った信長を自らの手で討取ろうとしたのであろうか。清州城北櫓に通された信行は信長の命を受けた河尻秀隆らによって逆に討取られてしまった(信長の目前で自刃したとも言われる)。
その後、末盛城は破却されたと伝えられているが、天正十二年(1584)の長久手合戦の際に徳川勢によって利用された可能性もあるようだ。
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