守山城の創築については定かではないが、大永年間(1521-28)に桜井松平信定が城館を設けていたことが「宗長手記」からうかがえる。
松平宗家とは折り合いの良くない松平信定は尾張で頭角を現しつつあった勝幡城主織田弾正忠信定の娘を娶って織田家との縁を深めていた。その後、松平信定は娘を織田信定の子信光に嫁がせ、その信光が守山城主となっていた。
この頃、三河では松平宗家を継いだ清康が破竹の勢いで三河を席巻、やがて三河を平定して天文四年(1535)には尾張の織田信秀と対峙するほどになっていた。
守山城はこの年に織田信秀が新たに居城とした古渡城からは約7km、那古野城からは4.5kmほどしか離れていない。十二月四日、清康は三河の軍勢を率いて岡崎城を発進して松平信定の婿である織田信光の守山城に進駐、織田信秀との決戦に備えた。翌朝、城内で馬が暴れて騒ぎが起こった。この騒動をかねてから逆心の疑念をもたれていた家臣の阿部大蔵定吉が清康に成敗されたと早合点した定吉の子弥七郎正豊が逆上して主君清康に斬りつけてしまったのである。不運にも清康は大手門付近で落命、享年二十五歳であった。斬り付けた弥七郎もその場で清康家臣の植村新六郎栄安(よしやす)に討たれ、肥溜めに放り込まれたと伝えられている。主君を失った三河勢は尾張を退去して三河へ戻った。いわゆる「守山崩れ」である。
その後も守山城は織田信光が城主として続き、兄信秀の支城として機能した。
弘治元年(1555)、信秀の後を継いだ那古野城の織田信長は守護代織田信友を滅ぼして清州城主となった。そして守山城の信光は那古野城主となり、信光と兄弟の信次が守山城主となった。いずれも信長の叔父にあたる。
新城主となった信次であったが一月後の六月、川狩り中に家臣州賀才蔵が下馬せずに通り過ぎた若者を無礼として射殺してしまったのである。こともあろうに死んだ若者は信長の弟喜六郎秀孝であったのだ。信次は信長の怒りを怖れて逐電してしまった。
ところが、信次の家老衆角田新五郎らが城に立て籠ったのである。これに怒った末盛城の信長の弟勘十郎信行は兵を率いて守山城下に火をかけ城を包囲した。信長も兵を出し、佐久間信盛が信長の弟信時を城主にすることで角田らを説得して開城させたというひと騒ぎがあった。
新たに守山城主となった信時であったが若衆を寵愛して角田新五郎を疎ましく扱うようになったと言われ、これに立腹した角田は城内に兵を引き入れて信時を切腹に追い込んでしまったのである。よくよくこの城は城主に恵まれないと言うか、禍いをもたらす城であったようだ。
この年、弘治二年(1556)、角田新五郎らは信行の配下に属して信長勢と稲生の合戦に参戦して討死した。
信長は空き城となった守山城に逐電していた叔父信次を許して再び城主とした。その後信次は天正二年(1574)の長島一向一揆攻めに参陣。追い詰められた一揆勢との戦いで討死してしまった。
その後の守山城は歴史に現れることはなく、廃城となったものとされている。一説には長久手の戦いの頃に廃城となったとも言われているが定かではない。
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