(あらこじょう)
愛知県名古屋市中川区荒子四丁目
▲ 荒子城址である冨士権現天満宮は前田氏が城内鎮守として勧請したものと由緒記に
ある。その境内地の一隅には「前田利家卿誕生之遺址」の大きな石碑が建っている。
前田利家公、
若き日の居城
荒子城は前田蔵人利昌(利春)が織田家より荒子の地二千貫を給されて築城したもので、尾張前田家発祥地である前田城から移ったことに始まり、天文十三年(1544)のこととされている。 城の概要は、 「狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るために屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のもの」 と城址の説明にあるように、戦いに備えた城というより、一族の生活の場であったといえよう。 利昌には六人の男子があった。利久、利玄、安勝、利家、良之、秀継である。 後に前田家の家督を継ぐことになる四男の利家(犬千代)は、天文二十年(1551)十五歳で織田信長の小姓となり、その翌年には清洲城の織田信友との戦いに初陣して首ひとつを挙げる活躍をした。元服して又左衛門利家となってからも信長のもとで戦功を重ね、「槍の又左」の異名をとり、赤母衣衆に抜擢された。 ところが、永禄二年(1559)に信長の茶坊主拾阿弥を惨殺して出奔、浪々の身となってしまった。翌三年五月の桶狭間合戦には出仕停止の身にもかかわらず、戦場に出て首を挙げたが信長に許されることはなかった。 この年七月に父利昌が亡くなり、長男の利久が荒子城主を継いだ。 永禄四年(1561)、美濃森部合戦にも戦場に出て二つの首を挙げた。この時の活躍が信長に認められて出仕を許されることになった。 永禄十二年(1569)、信長は病弱の利久に代わり、利家に前田家の当主となることを命じた。荒子城主となった利家は信長の馬廻りとして各地を転戦して活躍、天正二年(1574)からは柴田勝家の与力として北陸方面の平定に従事した。翌三年には佐々成政、不破光治とともに越前府中十万石を与えられ、利家は荒子城を出た。 その後は利家の嫡男利長が荒子城を守ったが、天正九年(1581)に利家が能登二十三万石を拝領して七尾城主となるにおよび、利長らも能登に移った。荒子城はこの時に廃城となったと言われている。 利家は後に秀吉の最も信頼する重臣となり、豊臣政権の五大老に列して加賀百万石(金沢城)の礎を築いた。 現在城址である天満宮の境内地には「前田利家卿誕生之遺址」の碑が建っている。しかし、利家の生年は天文六年と言われており、荒子築城が天文十三年であるならば、前田城で誕生したということになろうか。 |
▲名古屋臨海高速鉄道あおなみ線荒子駅前に建てられた「前田利家公初陣之像」。 |
▲「前田利家と荒子城」の説明板。 |
▲ 天満宮の鳥居。前田氏の祖は菅原氏と伝えられており、築城に際して城内に道真公を祀ったことにはじまる。 | ▲ 天満宮鳥居前に立てられた城址説明板。 |
▲ 天満宮西側の通り。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2010年4月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |