三木城
(みきじょう)

国指定史跡(三木城跡及び付城跡・土塁)

      兵庫県三木市上の丸町5     


▲三木城は長享二年(1488)に播磨を回復した赤松氏が勲功第一として東播磨
八郡の守護代に任じた別所則治によって築かれた。則治の五代目が最後の当主
長治である。秀吉と袂を別った長治は1年10ヵ月に及ぶ籠城戦の末に自刃した。
(写真・三木城本丸跡)

干し殺しの城

 三木市街地を流れる美嚢川の右岸台地上に三木城跡がある。三木城は戦国期に守護赤松氏のもとで播磨東部八郡(美嚢、明石、印南、加古、多可、神東、加西、加東の各郡)の守護代を勤めた別所氏の居城である。

この八郡、播磨半国の守護代となったのが別所則治である。文明十六年(1484)、則治は山名氏との抗争に敗れて堺に逃亡していた守護赤松政則を擁して入京、前将軍足利義政を頼り、翌年から播磨奪還の戦いを他の赤松家臣らとともに開始した。長享二年(1488)、山名氏の播磨撤退を機に赤松政則は播磨、備前、美作の三ヵ国を回復した。政則は別所則治の功績を讃えて播磨東部八郡の守護代としたのである。明応元年(1492)に則治は釜山城(三木城)を築いて居城とした。永正十年(1513)、則治、没。

別所氏の出自は赤松庶流家とされているが、伝えられる系図は錯綜しており、信頼性に欠けるとされている。別所氏の事績が明瞭となるのは則治のときからである。しかも、その登場が劇的であった。領国を失い、家臣団からも見放されていた赤松政則を擁して、足利義政を動かし、さらに家臣団(浦上、小寺、中村、依藤、明石の各氏)をも動かして播磨を回復したのである。赤松政則がそれまで無名であった別所則治を第一の功臣としたのは古くからの家臣団に対する牽制であったともいわれている。

その後、別所氏の家督は嫡男則定(耕月)が継いだが、わずか二年で死去したため、則定の子村治(就治)が若くして家督を継いだ。大永二年(1522)、赤松氏重臣の浦上村宗が別所館を襲撃、村治はこれを撃退している。これが三木城の初見とされている。以後、浦上氏との抗争が続き、享禄三年(1530)には三木城を攻められて落去、浪々の身となる。享禄四年(1531)、摂津天王寺合戦にて浦上村宗が討死すると村治は三木城に復帰した。

播磨の混乱はさらに続いた。天文六年(1537)、出雲の尼子氏が播磨に侵攻、翌年には三木城が攻められたが村治はこれを撃退している。天文二十三年(1554)になると三好氏の侵攻を受け、三木城を攻められるが村治は守り通している。翌年、村治は三好氏と和議を結び、その傘下に入った。永禄六年(1563)、村治、没。

村治の後は子の安治が継いだ。安治は三好三人衆の援軍として千人を率いて大坂、奈良へ出陣、松永久秀と戦った。しかし、大仏殿などが焼失して三人衆側が敗走、安治も自陣を焼いて三木へ撤退している。永禄十一年(1568)二月以降の安治の動静は不明とされている。程なくして嫡男の長治が継いだものと思われる。

長治は若年であったため叔父の賀相、重棟が後見したとされる。この年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。永禄十二年(1569)、信長は将軍足利義昭の命により但馬、播磨に出兵した。この時、別所氏は将軍義昭の命に従い、織田軍に属した。元亀元年(1570)正月、信長は諸国の武士に上洛を求めた。長治は叔父重棟と共に上洛した。

元亀三年(1572)、長治は信長と主従関係を結ぶ。この時に信長の「長」を拝領して長治を名乗った。その後、播磨国内はすべてが信長に属すことになり、長治も幾度となく信長に面会して親交を深め、天正三年(1575)の大坂本願寺との戦いにも参陣したとされている。

天正元年(1573)に信長によって京都を追放された足利義昭は天正四年(1576)、毛利輝元を頼って備後国鞆(福山市)に入り、鞆幕府(鞆城)を開いて信長打倒の活動を開始した。これによって毛利氏は信長と対立することになり、やがて播磨国内の混乱へと繋がって行くことになる。

天正五年(1577)二月、信長は紀州雑賀を攻めた。別所長治をはじめ播磨衆も雑賀攻めに加わったが、この隙に毛利方の宇喜多直家が西播磨に侵攻している。十月、信長は羽柴秀吉に命じて播磨へ出兵させた。

天正六年(1578)三月、秀吉は糟屋館(加古川市)に陣取り、織田方の播磨諸将を集めて軍議を開いた。世にいう加古川評定である。別所家からは長治の名代として叔父の別所賀相が家臣の三宅治忠を連れて出席した。席上、三宅治忠が別所家の功績や名将論などを長々と述べたため、秀吉は腹を立てて「各々は先手にて候えば精を入れて働けばよいのだ。戦いの下知は大将であるわしが指図する」と一蹴したという。

三木城に戻った別所賀相と三宅治忠は秀吉に下人扱いされたと長治に告げ、「いずれは我らも退治され、播磨は秀吉のものとなりましょう」と毛利方に付くことを進言した。一方で叔父の重棟や家老の後藤基国は秀吉と戦うことの非を訴えた。しかし、三木城内の大勢は毛利方に傾き、長治は秀吉との戦いを決した。当然、信長は「言語道断」であるとして長治の成敗を秀吉に命じた。ちなみに別所重棟は三木城を出て秀吉方に属した。

六月、織田信忠勢は別所方の神吉城と志方城(加古川市)を落として三木城に迫り、付城の構築を開始した。八月、信忠は平井山の付城を秀吉に渡して帰国した。十月、別所勢は平井山の秀吉本陣への攻撃に出たが敗退、長治の弟治定が討死した。

天正七年(1579)四月、織田信忠らが再び播磨に出陣、新たに付城を六ヶ所に築き、三木城の包囲網が厳重となる。さらに秀吉が三木城への兵糧の搬入路を遮断したため、城内の兵糧の欠乏は深刻な状況となっていた。こうしたなかの六月、秀吉の軍師竹中半兵衛が陣中で病没した(竹中半兵衛の墓)。九月、毛利方はなんとかして兵糧を三木城に搬入しようと試み、また三木城内からも兵が出て運び込もうとしたが、いずれも秀吉勢の攻撃によって阻止された。三木城内は「干し殺し」の状態となり、兵糧尽き果てて数千人の餓死者が出たという。

天正八年(1580)に年が変わると、秀吉は直ちに三木城に対する総攻撃を開始した。三木城に隣接する宮ノ上要害、鷹尾山城、新城が次々と落城した。一月十五日、秀吉に属した別所重棟が三木城内の小森与三左衛門を呼び出し、別所長治、長治の弟友之、叔父の賀相の切腹を促した。戦後、重棟は但馬国八木に一万五千石を与えられて大名に列した。長治は城兵の助命を条件に切腹を受け入れた。秀吉は浅野長政をして長治らに酒肴を送ったという。十七日、長治ら別所一族が自害した。介錯はあの三宅治忠が行い、切腹して果てた。

落城後、三木城には杉原家次が入り、城主となる。天正十一年(1583)、播磨国主羽柴秀長の家臣前野長康が三木城に入る。天正十三年(1585)、中川秀政が三木城主となる。文禄三年(1594)、豊臣氏の蔵入地となる。慶長五年(1600)、関ヶ原合戦後、姫路城主池田輝政の家老伊木忠次が三木城主となる。元和元年(1615)、一国一城令により廃城が決まり、石垣などが明石城の築城に転用されたという。


▲三木城二の丸跡の碑と市立みき歴史資料館。車はここの駐車場に置いた。

▲二の丸から本丸へと向かう。道路沿いの階段の先に稲荷神社があり、その裏手が本丸広場となっている。

▲本丸跡に設置された別所長治公の石像。

▲本丸の「伝天守台」跡とされる土盛。

▲伝天守台跡に建つ別所長治公辞世の句碑。
    今はただ恨みもあらじ諸人の
       命にかはるわが身と思へば

▲伝天守台跡からの眺め。美嚢川と三木市街地。

▲三木城本丸跡の国指定史跡碑。

▲別所長治公四百年祭記念之碑。昭和56年(1981)の建立である。

▲本丸跡の「かんかん井戸」。

▲模擬の城壁。

▲別所長治夫妻の首塚が残る雲龍寺の山門。

▲安土城の信長による首実検の後、住職が長治夫妻の首を貰い受けて埋葬した。


----備考----
訪問年月日 2023年11月14日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「三木合戦を知る」他

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