(たけなかはんべえのはか)
兵庫県三木市平井
▲竹中半兵衛の墓は天正六年(1578)から始まった三木城攻めの羽柴秀吉の本陣
平井山の西麓にある。病身をおして陣中に没したその姿は武門の誉れと讃えられた。
(写真・白壁に囲まれた墓域)
半兵衛、戦陣に果てる
天正六年(1578)三月、織田信長に反旗を翻した三木城主別所長治を攻めるために羽柴秀吉は八月に平井山に本陣を置いた。三木城の周辺には織田方によって数多くの付城が築かれ、徹底した兵糧攻めが実施された。その付城群のひとつで秀吉本陣平井山の北350mほどの山上に平井村中村間ノ山付城跡と名付けられた陣所跡がある。秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治が陣を構えたところと伝えられている。 平井山は三木城の西北西約3kmの所にある。その平井山の西麓に竹中半兵衛の墓が残されている。竹中半兵衛はこの三木城攻めの陣中に三十六歳の若さで没したのである。 竹中半兵衛重治は秀吉の軍師として知られ、秀吉の陣中にあって知恵袋としてその才能を発揮した武将であった。天文十三年(1544)、美濃国大野郡大御堂にて竹中重元の子として誕生、十五歳の頃に不破郡岩手に移り、重元は菩提山城を築いて居城とした。永禄五年(1562)、父重元死去により半兵衛が十九歳にして家督を継承、二十一歳のときに義父安藤守就と弟ら主従十八人で主君斎藤龍興の居城稲葉山城を乗っ取るという快挙を成し遂げた。酒色に溺れ、家臣をないがしろにする主君を諫めるためであったとされる。その後、稲葉山城は龍興に返して半兵衛は隠遁した。 永禄十年(1567)、織田信長は斎藤龍興を敗走させて稲葉山城を奪取して天下布武の拠点とした。信長は浪人中の竹中半兵衛を臣下に加えようと秀吉を派した。秀吉は「三顧の礼」で半兵衛を誘ったという。半兵衛は信長ではなく、秀吉に仕えることでその誘いを受け入れたとされる。 その後、秀吉の与力として戦陣を供にし、特に敵方に対する調略活動で活躍した。味方の犠牲を抑え、戦わずして勝つことに注力したのであろう。秀吉が中国攻めの総大将に任ぜられると半兵衛も随伴して秀吉を補佐したが、この頃から病床に伏すことが多くなったという。 天正六年(1578)の三木城攻めの最中に摂津有岡城で荒木村重が信長に反旗を翻した。この時、秀吉に協力していた小寺孝高(黒田官兵衛)が村重説得の為に単身有岡城に乗り込んだが、幽閉されてしまった。十月のことである。信長は官兵衛が村重方に寝返ったと思い、官兵衛の人質で嫡子松寿丸(黒田長政)の処刑を秀吉に命じた。竹中半兵衛は官兵衛を信じ、秀吉に偽首を出させて松寿丸を自身の領地美濃岩手に匿った。信長の命に逆らう大胆な行動であった。しかし半兵衛の病状は快復せず、京都で療養の日々を送ることになり、この年も暮れた。 年が明け、春三月に半兵衛は三木城包囲の陣に戻った。死期を悟ったのであろうか、病床に伏すよりも軍師として陣中で果てたいとの思いであったのであろうか。六月十三日、半兵衛は陣中に没した。半兵衛の死から四ヶ月後、有岡城が落城して黒田官兵衛が救出された。信長は官兵衛と松寿丸を許したが、これは半兵衛の死に報いたものであったのかもしれない。三木城の落城は翌天正八年(1580)一月であった。 臨終のとき、半兵衛は秀吉に対して将来の「天下人」と予言して息を引き取ったという。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがって泣いたらしい。 |
▲竹中半兵衛の墓の案内。背後の白壁の内側が墓域である。 |
▲白壁に囲まれた墓地。 |
▲墓地に掲げられた説明板。 |
▲竹中半兵衛公を偲ぶ漢詩。 |
▲墓地付近から秀吉本陣のある平井山方面を望む。 |
▲墓地はぶどう畑に隣接している。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2023年11月14日 |
主要参考資料 | 現地説明板、他 |