杉山城
(すぎやまじょう)

国指定史跡(比企城館跡群)・続百名城

埼玉県比企郡嵐山町杉山


▲杉山城は1520年代前半に山内上杉氏方によって築かれたことが
判明しつつあるが、その詳細については未だに不明な部分が多い。
(写真・本郭から南二の郭、外郭方向を見る)

築城の教科書

城址東側の出郭大手口に立って城域を見渡すと、木々が適度に伐採され、下草が刈られた保存状態の良い戦国期の土の城が眼前に広がっている。城域に踏み入ると虎口、土塁、堀、郭、折れが連続する切岸などが戦国争乱の時代に私たちを誘ってくれる。

この杉山城はその技巧的な姿から「築城の教科書」とか「戦国期城郭の最高傑作」と評価されている。従来、その高度な築城技術、そして歴史的背景から後北条氏によるものと考えられていた。しかし、その後の発掘調査や文献史学の研究進展などから、年代や歴史的背景が明かされつつある。

史跡指定に伴う発掘調査が平成14年(2002)から18年にかけて実施された。遺構面の重なりや改築は見られず、短期間の一時期に使用された城とされ、時期は16世紀初頭前半と位置付けられた。出土遺物の中には山内上杉氏関連遺跡で出土する大口径で薄手のかわらけが多く見られたという。ちなみに後北条氏時代の遺物は出土していない。

文献的には「足利高基書状写」の内容が再検討され、文中の「椙(すぎ)山之陣」がこの杉山城に比定された。この書状の内容は古河公方足利高基が毛呂土佐守が「椙山之陣以来…」関東管領山内上杉憲房を援護していることを賞するというものらしい。この三者の関係から椙山の陣(杉山城)が構えられたのは大永元年(1521)から大永四年(1524)正月に限定されるということである。発掘調査結果の16世紀(1500年代)初頭と年代が一致している。

したがって、杉山城は川越城の扇谷上杉氏に対する鉢形城の山内上杉氏の陣城として築かれた城といえる。短期間に使用されたという点から在地土豪による居城ではないとされる。

とはいえ、この城(陣)の具体的な築城者や誰が配置されたかなどのことは未だに不明のままである。このような技巧的な築城技術を持った家臣が山内上杉氏の家中にいたということで、その正体の解明が待たれるところである。


▲本郭から見た東二、三ノ郭。

▲本郭に建つ城址碑。

▲縄張図。

▲駐車場から玉ノ岡中学校の校門を入り、案内に従って校内を行く。

▲見学者用駐車場。

▲駐車場の説明板。

▲駐車場から玉ノ岡中学校の校門を入る。

▲玉ノ岡中学校校舎の西側が出郭跡で城址への入口である。

▲出郭に設置された案内板とパンフレット置場(切り株の上)。

▲大手口南の堀(左)と正面に外郭の土塁。

▲外郭と出郭の間の堀。

▲外郭と馬出の間の堀。

▲外郭から東二の郭と東三の郭を見る。

▲南二の郭の切岸。

▲本郭東の切岸(右)とその向こうの南二の郭。

▲本郭

----備考----
訪問年月日 2023年5月10日
主要参考資料 「杉山城跡」現地パンフ
「関東の名城を歩く南関東編」他

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