西郷南洲翁宿所
(さいごうなんしゅうおうしゅくしょ)

      鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北     


▲西郷南洲翁宿所は西郷隆盛が下野帰郷後に三度、ここに狩猟などの
ために訪れている。私学校決起の報せはここで聞き、それが最後となった。
(写真・宿所となった平瀬家住宅)

西郷最後の宿所

錦江湾の南湾口近く、大隅半島側に根占(ねじめ)という港町がある。港の北側は錦江湾に流れ出る雄川の河口となっており、その北岸が住宅地となっている。この住宅地の海岸近くに古い住居がある。住居前には「西郷南洲翁宿所」の看板が掲げられている。

西郷南洲翁とは西郷隆盛のことである。西郷は明治六年(1873)に征韓論に敗れて下野、鹿児島へ帰郷した。その後、桐野利秋や篠原国幹ら鹿児島出身の軍人や官僚が西郷に続いて大量に辞任、帰郷した。明治七年(1874)には血気盛んな若者を統制するために私学校が鹿児島城内の御厩跡に設けられた。明治八年から九年(1876)にかけて私学校党が鹿児島県の官吏や警吏を占めるようになる。この間、西郷は武(たけ)の屋敷(鹿児島市武)で過ごし、指宿の鰻温泉や霧島の栗野温泉、日当山温泉などで湯治したことはよく知られている。

明治九年(1876)の十月になると熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱と立て続けに不平士族の反乱が起こった。西郷はこれら不平士族の反乱を支持するつもりはなく、相変わらず湯治や県内(根占など)の山野を犬を連れて兎狩りなどして私学校からは離れていたようだ。

明治十年(1877)一月、政府は鹿児島の不穏な情勢を憂慮して現地の弾薬庫から火薬や銃弾を撤去することを決定した。二九日の夜、軍は県庁への通告をせずに草牟田の陸軍火薬庫から秘密裏に運び出しを始めた。軍のこの動きを私学校で焼酎飲みしていた生徒らが気付き、五十数名を誘って草牟田の火薬庫に駆け付けた。「ここん弾薬は薩摩んもんじゃっど」と搬出を妨害して約三十万発の弾薬を奪ったという。翌日にはさらに私学校生徒多数が集結して草牟田及び磯の海軍火薬庫も襲い、これが三晩続いた。軍は鹿児島県に鎮圧を求めるが、県令の大山綱良でさえも手が付けられなかったようだ。

二月一日、桐野利秋ら私学校幹部はこの事実を西郷に報せるため、西郷小兵衛らを根占に向かわせた。小兵衛は西郷隆盛(四十九歳)の十八歳違いの末弟である。残念ながら西南戦争で戦死してしまう。根占の浜に着いた小兵衛は兄が宿所としている平瀬十助宅を訪ねた。その時、西郷は平瀬家から南東950mほど離れた有富家(根占郵便局前)に居て、急いで平瀬家へ戻って事の詳細を聞かされた。

報告を受けた際に西郷は「ちょっしもたっ」(しまったの意)と発したというのは有名である。翌日、西郷は小兵衛らとともに早船で鹿児島へ戻った。その後、警視庁による西郷暗殺計画が明るみに出たりして、私学校党による決起は止まる事がなく、鹿児島県士族の軍団編成へと進み、十五日には陸軍大将西郷隆盛以下一万三千の将兵が大雪のなかを出発するに至った。わが国最後の内戦となった西南戦争の勃発である。

西郷が私学校決起の知らせを受けたのがここ「西郷南洲翁宿所」の看板のある平瀬家の住居である。瓦屋根とガラス戸以外は当時のままだという。百五十年以上も風雨に耐えてきた小さな木造家屋である。屋根瓦の重さに耐えているのが精一杯といった感じである。住居の庭には西郷も使用した石風呂や手水鉢、大正五年(1916)建立の石碑が残されている。

許可を得て屋内を案内してもらう。公開されているのは玄関口の一間とそれに続く縁側付き一室の二部屋である。二部屋共に六畳間である。西郷は縁側付きの六畳間でくつろいでいたという。玄関を上がった一間には神棚があり、丸い穴が開いている。「弾痕」と書かれた紙が貼られている。当時、西郷の警護の者が誤って西郷の猟銃を暴発させたためにできた穴らしい。警護の者は恐縮して切腹して謝罪すると申し出たが、西郷は大笑いしながら「腹を切ったら痛かろよ、血が出るもんじゃが、そげんこつしやんな」と言ったという。西郷の部下思いの一端が窺える話である。

明治八年(1875)以降に西郷は三回根占に来て、その都度ここ平瀬家を宿所としていた。ここで西郷は天気の良い日には犬を連れて野山で兎狩りをした。大きな体躯であるが野山を駆けるのは速かったらしい。雨の日は屋内で書や読書、平瀬家の人や客人と茶を飲みながら世間話に興じて過ごしたという。月の夜は小舟でイカ釣りに出た。好物はウルメイワシの刺身、タコは好まなかったらしい。ミカンは大好物だったとのことである。


▲西郷どんが横たわるベンチ。訪問者の皆さんはさっそく記念撮影だ。ベンチの前には数台の駐車スペースがある。

▲今では無住の家で、普段は施錠されている。町の教育委員会に連絡しておくと開けて待っていてくれ、内部の説明もしてくれた。

▲老朽化のためか雨戸が打ち付けられている。

▲郷土の偉人磯長得三によって大正五年に建てられた「西郷南洲宿所之碑」。

▲手水鉢(手前)と石風呂(奥)。石風呂は湯を沸かして、それを側で浴びた。

▲西郷がくつろいだ一室。

▲猟銃が暴発して開いた弾痕。

▲西郷が暖を取ったという火鉢。私学校決起の冬はとくに寒かった。

▲説明板表。

▲説明板裏。



----備考----
訪問年月日 2023年7月23日
主要参考資料 「西郷隆盛」鹿児島育英財団
「根占まち歩きマップ」他

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