(せいなんせんそう)
(しろやま)
国指定史跡(城山)、県指定史跡(私学校跡石塀、南洲墓地)、市指定史跡(西郷隆盛洞窟、同・終焉の地)
鹿児島県鹿児島市城山町
▲ 西郷隆盛が最後の日々を送った岩崎谷の「史跡・西郷隆盛洞窟」。
西南戦争、
最後の戦い
明治十年(1877)二月に西郷隆盛以下一万二千の薩軍が鹿児島を出撃した。その後、熊本城、田原坂方面の激戦で官軍に敗れてからは人吉(熊本県/人吉城)、そして宮崎へと後退を続けていた。 鹿児島を出てから半年後の八月、西郷以下の薩軍は延岡(宮崎県)の北郊長井村で官軍に包囲されていた。薩軍は最後の力を振り絞って延岡奪回の攻撃を行ったが衆寡敵せず、西郷はついに「解兵令」を出して軍を解散した。西郷のもとに残った兵は六百、身軽になった西郷軍は可愛岳(えのだけ)の険を突破して官軍の糧食を奪いながら三田井(高千穂町)に出た。 ここで西郷は、 「鹿児島へ帰っど」 と帰郷を決した。この一言は生き残った兵たちの足どりを軽くした。 「どうせ、け死んとなら、故郷で」 ここから鹿児島に至る山中の道は険しい道のりであったが、兵たちは遠足のように楽しい様子であったという。 三田井を出て十日後の八月三十一日、西郷らは蒲生に着いた。桜島がいつもと変わらぬ姿で西郷らを迎えてくれていた。鹿児島まで約20`のところである。 鹿児島はすでに官軍の占領下にあったが、駐屯する官軍は少数で川路利良の警視庁巡査隊千五百と軍の一部が留まっていた程度である。 西郷軍三百七十余人は三隊に分れた。九月一日午前、辺見十郎太の前軍が鹿児島に突入、官軍の駐留する私学校を奪回した。続いて後軍も市内に突入、城山を占領した。 突然の西郷軍出現に驚いた県令岩村通俊は軍艦高千穂で逃げ出す有様であった。 ほぼ無傷で私学校及び鹿児島城跡と城山に陣取った西郷軍に百人ほどが市内から駆け参じたという。熊本攻城戦などで負傷帰還していた若者たちであった。しかし武器弾薬の手持ちは少なく、小銃は百五十挺ほどであったという。大砲六門と臼砲九門があったというが、砲弾が僅少で役に立たなかったようである。 ちなみに西郷軍の配置とその隊長を列記してみる。 岩崎本道・河野主一郎、私学校及び角矢倉・佐藤三二、二の丸及び照国神社・山野田一輔、大手口及び本田屋敷・高城七之丞、上の平広谷及び三間松・河野四郎左衛門、新照院越及び夏蔭下・橋口吉左衛門、夏蔭口・岩切喜次郎、後の廻・園田武一、後の廻及び城ヶ谷口・市来矢之助、城山・藤井直次郎、狙撃隊(西郷の警護)・蒲生彦四郎、以上戦闘要員としては三百人前後であった。一隊あたり三十人足らずということになる。 西郷軍の本営は城山の最高所付近に置かれ、西郷自身は側近とともにそこから東に下った岩崎谷に洞窟を掘って居所とした。西郷の周りには桐野利秋、村田新八、池田四郎、別府晋介、辺見十郎太、野村忍介といった幹部たちが従った。 一方の官軍は続々と鹿児島に集結、約五万の兵力で城山の包囲陣地を構築していた。勝敗は目に見えていたが、参軍の山県有朋は可愛岳の戦訓から、包囲防守を第一として攻撃を第二とする方針で臨み、完全包囲網の構築を優先させたのである。 その間、西郷軍内部では西郷の助命を求めて法廷の場で義挙の大義を明らかにすへきとの動きが起こっている。西郷自身にその気はなかったと思われるが、結局河野主一郎と山野田一輔が軍使となり、海軍の川村純義(薩摩出身)に面談を求めて官軍陣営に向かった。しかし二人は巡査隊に捕らえられ、拘留されてしまった。十九日のことである。 二十二日、西郷は、 「…此城を枕として決戦可致候…」 などとしたためた檄文を各隊に回覧させて決死の意を伝えた。 二十三日、官軍側に捕らえられていた山野田一輔が川村純義からの伝言を城山に持ち帰ってきた。それは官軍の総攻撃が明日ということと降伏するならば本日午後五時までであるという最後通告であった。また、山県有朋からは自決を勧める書簡が届けられた。 これらの通告に対して西郷は、 「回答の要なし」 と無視した。 この夜、西郷の陣では最後の宴が催された。謡や舞、琵琶の音、笑い声、そして交わす盃は水であったがまるで祝宴のようであったという。さらに夜空に数十発の花火が上げられたという(「真説西南戦争」)。西郷軍の兵たちは夜空に開いては消えゆく花火を明日のわが身に重ねて見上げていたにちがいない。 二十四日午前三時五十分、砲撃と同時に官軍の総攻撃が始まった。洞窟前では桐野ら四十人ほどの幹部が整列して西郷の閲兵を受けた。 午前五時頃には城山の頂上が官軍に制圧され、洞窟前に官軍が到達するのも時間の問題となった頃、西郷は洞窟を出て警護の兵とともに岩崎谷口の坂道を下りはじめた。これに桐野や別府の幹部たちも続いた。別府は腰を負傷していたためカゴに乗っていた。 坂の下には官軍の兵士たちが待ち構えている。坂の途中で西郷の巨体が銃声とともに崩れ倒れた。弾が西郷の肩から股を撃ち抜いたのである。 「晋どん、もうよかろう」 と西郷は別府晋介を呼び、東を向いて端座した。 「ご免なったもし」 負傷していた別府晋介は最後の力を振り絞って西郷の首を斬り落とした。 桐野や別府ら西郷軍の将士が全滅して果てたのはそれから間もなくのことであった。 西郷隆盛、享年五十一歳。そして七ヵ月余にわたった日本最後の内戦、西南戦争も幕を閉じた。 |
▲ 西郷軍最後の本営が置かれた城山公園の展望台から見た鹿児島市内と桜島。桜島からは薄っすらと噴煙が上がっている。この日、市内には火山灰が舞い降りていた。 | ▲ 史跡西郷隆盛洞窟の前に建てられた「南州翁洞中記念碑」。南州翁とは西郷隆盛のことをいう。 |
▲ 官軍が洞窟に迫るのも時間の問題となった頃、西郷は洞窟を出てこの坂道を下った。岩崎谷口の坂道である。この坂の途中で西郷は銃弾に倒れ、別府晋介によってその首を斬られた。 |
▲ 岩崎谷口の坂道を下った所に建てられた「南州翁終焉之地」の碑。 |
▲ 「西郷南州翁設立私学校跡」の碑。西郷は旧軍人・士族のため、鹿児島城内の厩跡に銃隊学校、砲隊学校といった私学校を設立した。 |
▲ 私学校跡石垣に残る弾痕。少数の西郷軍に対して物量に勝る官軍の攻撃の凄まじさが伝わってくる。 |
▲ 城山の直下ともいえる市立美術館前に建つ西郷隆盛像。上野の西郷さんと違って鹿児島の西郷さんは軍服姿である。 |
▲ 西南戦争で戦死した薩軍(西郷軍)将士が眠る南州墓地。右から村田新八、篠原国幹、西郷隆盛、桐野利秋の墓である。 |
▲ 西郷以下二千人余が眠る南州墓地から見える桜島。 |
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訪問年月日 | 2009年5月3日 |
主要参考資料 | 「西郷隆盛」他 |