(かばしんめいぐう)
浜松市中央区神立町
▲蒲神明宮は藤原靜並が当地域を開発、伊勢神宮の御厨
として寄進、靜並の子孫蒲氏が神官として代を重ねた。
(写真・蒲神明宮二の鳥居)
蒲御厨と蒲氏
浜松市東区の南部(上新屋、原島、北島付近)から南区の北部(渡瀬、飯田付近)にかけての地域は平安時代に蒲御厨として伊勢神宮に寄進された地域である。この蒲御厨の西端、現在の神立町に蒲神明宮がある。 蒲神明宮の創建については明確ではないが、「浜松の史跡」(浜松史跡調査顕彰会・編)によれば「大同元年(806)伊勢の大神宮から諸神を勧請したことに始まる」とある。当然、御祭神は天照皇大御神である。その後の貞観十六年(874)に従五位下の神階が授けられたという。 蒲御厨が成立するのはその後のことである。由緒によれば藤原鎌足十代の孫で、蒲氏の祖となった藤原越後守静並公が伊勢神宮の御神託によって当地を開拓し、御厨として寄進して神宮を勧請したとされ、以来神宮に倣い二十年毎の式年遷宮を続けている、ということである。 伊勢神宮による御神託とはこうである。越後守靜並が伊勢神宮を参拝した折に社内より出て来た小蛇が狩衣の袖を越えて再び社内へ戻っていった。靜並が袖を見ると「蒲開発本願主」と文字が薄っすらと表れていたという。靜並は蒲の地が遠江にあることを知り、田畑を開拓すると多くの人々が集まり、そしてその広大な開拓地を伊勢神宮に寄進して御厨とした。また、蒲神明宮の鬱蒼とした森を「袖紫ヶ森(そでしがもり)」と呼ぶが、これは靜並の袖に現れた文字が紫色であったことからきている。 靜並の子孫は蒲氏を名乗り、御厨の惣検校(監督官)として現地を支配すると同時に神明宮の神官として代々続いた。蒲御厨は二十四郷に及び数千石の神領であったといわれる。「浜松の史跡」には藤原靜並の名ではなく藤原仲挙(なかたか)が鎌足十世の孫として記されているが、靜並と仲挙は同一人物なのであろうか。 京都で源氏と平氏がぶつかる保元(1156)・平治の乱(1159)の数年前、源義朝の六男範頼がここ蒲御厨で誕生している。母は池田宿の遊女と伝わっているが、宿の有力者の娘であったとの見方がある。現在、池田(磐田市池田)の地は天竜川の東岸に位置しているが、平安当時の天竜川は池田の東側を流れており、蒲御厨とは境を接していた。 源範頼は蒲氏の保護を受け、御厨内の飯田(浜松市南区飯田町)の別邸で成長した(源範頼供養塔)。範頼を蒲冠者と呼ぶのはここからきている。この当時の蒲氏の当主は清倫(きよのり)で、その娘と範頼の間に一女が生まれた。藤姫という。蒲氏はこの藤姫によって継がれ、代を重ねたという。範頼自身は平氏討伐に義経と共に活躍したことはよく知られているが、建久四年(1193)に頼朝によって誅殺された。 蒲氏のその後について「遠江古跡図絵」にこうある。「この家代々武術を心掛け、蒲十八人組となづく。世乱るる時は一方の大将を承り、従者十八人引率して戦場へ出陣すと云ひ伝ふ。旗本同様の格と云ふ」とある。神官であると同時に蒲の地を守り続けようとする土豪としての一面を伝えている。 |
▲蒲神明宮本殿。 |
▲蒲神明宮御由緒。 |
▲範頼が関東(埼玉県北本市石戸宿)に下向した際に植えた桜は二本五大桜に数えられる「石戸の蒲ザクラ」と言う。その苗が寄贈されて境内に植えられ成長している。 |
▲境内末社のひとつ厳島神社と池。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2023年7月6日 |
主要参考資料 | 「浜松の史跡」 |
↑ | 「遠江国古跡図絵」他 |