鳥羽山城
(とばやまじょう)

国指定史跡

浜松市天竜区二俣町二俣


▲ 天竜川を見下ろす標高108mの山頂に構築された
本丸の枡形虎口。現在では公園広場となっている。

二俣城を奪還せよ

 天正三年(1575)五月、長篠(設楽原古戦場)で織田信長とともに武田勝頼を打ち負かした徳川家康はその後間髪をいれずに武田の手に落ちた遠江諸城の奪回に乗り出した。

 とりわけ、北遠の諸城は元亀三年(1572)の信玄乱入によって悉く武田方に降り、殊に二俣城には武田の家臣依田信蕃(のぶしげ)が入城して浜松城の頭を押える形となっていた。家康が中遠、さらに大井川方面の失地回復に乗り出すためにはまず二俣城を落としておかなければならなかったのである。

 長篠合戦後の六月二十四日、光明山城を落として二俣城を孤立させた家康は大久保忠世を攻略軍の大将に任じ、周辺に城砦を築いて完全包囲の態勢を整えた。後は二俣城内の兵糧が枯渇するのを待つだけである。

 大久保忠世はここ鳥羽山城を城塞化して本陣とし、和田ヶ島砦毘沙門堂砦蜷原砦と連携して二俣城の監視を続けた。包囲半年後の十二月二十四日、二俣城将依田信蕃は退城を条件に開城を受け入れた。

 ちなみに依田信蕃はこの後、駿河田中城の城将として再び徳川勢と戦ったが、武田勝頼が天目山(景徳院)に滅ぶにいたり、信蕃は家康の誘いを受け入れてその麾下に加わることとなった。その後は家康の信州平定の先兵として佐久方面に出陣したが、岩尾城の攻撃で銃弾を受けて討死してしまった。家康は信蕃の功績を認めてその子に松平姓を与え、小諸城六万石の大名に取りたてている。

 ともあれ大久保忠世は二俣城主となり、鳥羽山城はその出城としてその後も維持され続けた。

 現在の城址はそうした戦国の歴史を秘めつつ、春は桜そして秋は紅葉の名所として市民に親しまれる場となっている。

 ▲ 2011年再訪時の大手枡形。    ▲ 本丸。(以下再訪時撮影)     ▲ 本丸展望台から浜松方面の展望。

 ▲ 搦手門跡。              ▲ 本丸通用門跡。            ▲二の丸東側の堀切跡。

----備考----
訪問年月日 2004年12月12日
 再訪年月日 2011年9月15日 
 画像追加 2011年10月30日 
 主要参考資料  「静岡県古城めぐり」他

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