和田ヶ島砦
(わだがしまとりで)

浜松市天竜区渡ヶ島


▲ 和田ヶ島砦は二俣城奪還のために徳川家康が築いた
付城群のひとつである。榊原康政が布陣したことで知られる。

二俣城奪還、西の砦

 天正三年(1575)六月二日、徳川家康は長篠合戦(設楽原古戦場)の大勝利の後、間髪を入れずに二俣城奪還の駒を進めた。本陣を鳥羽山城に置き、大久保忠世に攻城の指揮を委ねると二俣城を囲むように毘沙門堂砦蜷原砦そしてこの和田ヶ島砦を構築して兵糧攻めの態勢をとった。

 和田ヶ島砦は天竜川を挟んだ二俣城の西約700mの高台にある。布陣したのは後に徳川四天王に数えられることになる猛将榊原康政である。二俣城の東に築かれた毘沙門堂砦に布陣した本多忠勝とは同年の二十七歳である。二俣城はこの血気盛んな青年部将二人に東西から睨まれたことになる。

 六月二十四日、榊原康政は本多忠勝とともに徳川勢の先鋒となって、今川旧臣の武田方朝比奈泰方の守る光明城を攻め落とした。これで二俣城は全くの孤立無援の状態となった。

 二俣城将依田信蕃はその後、半年もの間籠城を続けたが糧食尽き、援軍の望みも絶たれ、十二月二十四日に至りついに開城退去した。

 現在、砦の主郭部は農地となって土地の改変が進んでいるようだが、この砦の特徴である細長い二の曲輪とその先端に設けられた堀切跡は目にすることができる。


車を停めた道路から少し歩くと右手に堀切が現れる。

▲二の曲輪。

▲ 車を停めた路側帯から砦への入り口。道路標識の所から入る。

▲ 細長い二の曲輪。送電鉄塔が立っている。

▲ 堀切の片隅に立つ標柱。小さいので見落としそう。

----備考---- 
訪問年月日 2011年11月13日 
 主要参考資料 「浜松城時代の徳川家康の研究」他

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