(しまばらじょう)
百名城
長崎県島原市城内
▲ 島原城は江戸初期に築かれた層塔式天守をもつ近世城郭であり、復興した
天守や櫓群によって往時の武と美に満ちた壮麗な姿を私たちに見せてくれている。
権威と弾圧の城
慶長十九年(1614)、四百年にわたって島原半島とその周辺部に覇を唱えた有馬氏は十四代直純の日向延岡転封によってその支配に終止符が打たれた。 有馬領内には直純の父晴信の時代にキリスト教が広く深く、武士や農民の別なく浸透して、キリシタン王国の観を呈していた。それが幕府の禁教方針によって直純は領内のキリシタンに対する弾圧を実行した。しかし、わずか二年で転封となって有馬の地を去ったのであった。領民の弾圧に嫌気がさして自ら転封を願い出たとも言われている。 直純転封後、有馬領は天領となっていたが元和二年(1616)に大和五条一万石の松倉重政が大坂夏の陣の戦功により日野江藩四万三千石の藩主として当地に入部した。当初、有馬氏の居城であった日野江城に入っていたが、元和四年(1618)の一国一城の制により、地理的に領内南部に位置する日野江城と原城を廃して当地に新城の築城を開始した。この城が島原城である。森岳と呼ぶ丘を利用して築かれたことから森岳城とも呼ばれる。 築城工事は四〜七年の歳月を要したと言われ、連郭式の近世城郭であり、層塔式五重の天守を備えたものであった。四万石でありながら十万石相当の城郭であったといわれ、数々の築城を手掛けた重政流築城の集大成であったといえよう。この過分な築城工事には日野江城や原城の石材が運ばれるなどして延べ百万人が動員され、過酷な労役や搾取が行われたものと思われる。 寛永二年(1625)、三代将軍徳川家光からキリシタン取締りの不徹底さを指摘された重政は俄然徹底的な弾圧と迫害に乗り出した。棄教を迫る拷問や処刑は残忍を極め、雲仙地獄に投げ込むようなことまでしている。そして容赦のない重課税によって領民たちは貧苦にあえいだ。 現在の復興された天守や櫓群を備えた島原城は壮麗でロマンを誘うものであるが、その歴史を思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。 さらに、重政のキリシタン弾圧はその根拠地とされるルソンの攻略にまで発展する。が、実施の直前、重政は急死して、この計画は実行されることはなかった。寛永七年(1630)のことである。後を継いだ嫡男勝家もまた圧政と弾圧を踏襲した。 寛永十四年(1637)、重税と弾圧に加えて飢饉・凶作が重なり、帰農した有馬旧臣や庄屋らが主導者となってついに一揆軍が蜂起した。島原の乱である。 一揆軍は藩の軍勢を追ってこの島原城にも押し寄せ、城下町を焼き払った。同時に天草方面においても天草四郎を戴いた一揆軍が蜂起していた。そして幕府討伐軍との戦いに備えて島原一揆軍と合流して原城跡に集結した。その数、老若男女を含めて三万七千人ほどであったと伝えられている。 原城の籠城戦は三ヵ月続き、翌寛永十五年(1638)二月、十二万を超える幕府軍の猛攻を受けて落城、一揆軍のほとんどが討取られ、原城の土となった。 原城の発掘から鉄砲弾を溶かして作られた鉛製の十字架やメダイなどが数多く発見されている。一揆軍の多くがキリシタンであったことを物語っている。 乱後、松倉勝家は乱の責任を問われて改易、所領没収となり、同年七月に斬首に処せられた。 その後、島原城主となった高力氏が二代続くが、重税を強いたために改易させられている。以後、深溝松平氏(深溝城)が十三代(途中戸田氏が二代)続いて明治に至った。 |
▲ 本丸への入り口。観光用に設けられたもので、かつての大手ではない。車のまま天守入口まで乗り入れができるのもめずらしい。 |
▲ 天守の足元が観光者用の駐車場となっている。 |
▲ 天守台の石垣。 |
▲ 天守北側には郷土出身の芸術家北村西望作の彫像が展示されている。 |
▲ 復興天守の入り口。鎧武者や赤いくノ一が観光客を楽しませている。 |
▲ 本丸南側では幾重にも折れる多聞塀を見ることができる。 |
▲ 本丸西南角の高石垣。 |
▲ 本丸南東角の巽櫓。内部は西望記念館となっている。死角を無くすための石垣の折れが見事である。 |
▲ 本丸の東側、丑寅櫓。内部は民具資料館となっている。 |
▲ 本丸北東側から見た丑寅櫓。 |
▲ 二の丸との間の堀から本丸へと戻る。 |
▲ そして再び天守。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2011年5月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭大系」 |
↑ | 「南島原歴史遺産」他 |