了仙寺
(りょうせんじ)

国指定史跡

静岡県下田市下田


▲ 日蓮宗了仙寺。現在ではジャスミン寺として有名で、五月下旬に満開となる。

開国の地に
          ペリー艦隊上陸

 大坂夏の陣の頃、徳川家康は眼病を患い、家臣の勧めによって身延山久遠寺の日朝上人に病平癒の願をかけたという。その祈願成就の功により三代将軍家光によって建立されたのがこの寺である。

 創建は寛永十二年(1635)二月、当時の下田奉行今村伝四郎正長の采配による。正長の事績はその後の下田発展の基盤を固めたということで大きく顕彰されるべきものがある。が、その仔細は別の機会にゆずることにしよう。

 何はともあれ、この了仙寺が歴史に大きく登場するのは嘉永七年(1854)三月、ペリー艦隊の下田入港によってである。

 この年の一月、ペリーは横浜に再来して日米和親条約を締結、下田と函館の開港を取りつけた。早速ペリーは艦隊を下田に回航、上陸したのである。その目的は和親条約に伴う細目を決めるためである。その協議の場となったのがここ了仙寺であったのである。

 上陸に際し、米側は大砲とともに三百人の水兵と軍楽隊によって行進して了仙寺境内に整列したという。現在、その当時の様子が本堂の正面に掲げられている。

 これは威嚇のための軍事行動ではなく、敬意と親善を意味するもので、この時の軍楽隊による演奏が日本で最初の洋楽コンサートとして記憶されることになった。

 米使接待役は浦賀奉行支配組頭黒川嘉兵衛で生活習慣の違う相手に苦心したものと思われる。

 幕府全権は林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守で十三ヵ条の下田条約が十日間の協議の末締結された。米国人の下田における立入許可区域の設定、鳥獣の捕獲禁止、貿易の管理、死亡者の埋葬などが決まると、艦隊の米人らは街中を自由に歩き楽しんだ。

 高価な銀板写真の時代であるから、当時の風景を残すために写生画家が艦隊に随行するのが常であった。彼らの残したスケッチは当時を物語る貴重な財産として保存されるべきものである。

 この当時のアジアの諸国が次々と欧米列強の威圧に屈し、植民地となっていたのに対し、この極東の小国がなぜそうならなかったのであろうか。ペリーの日本遠征記には所々に支那人との対比が記されている。

 純真無垢な庶民と誠実に応えようとする幕府官僚の態度、そのひとつひとつが欧米人たちの忘れかけていたなにものかを呼び覚ましていたのではないだろうか。


ペリー上陸地から了仙寺へと続く平滑川沿いの路。ペリー艦隊の士官や水兵たちが行き来した通りである。現在はペリーロードと名付けられ、なんとなくアンティークな雰囲気を漂わせている

▲ペリー上陸の碑。嘉永七年(1854)、下田湾に投錨したペリー艦隊の上陸地となった場所である。
 ▲ 本堂前に建つ史跡碑。国の史跡に指定されている。
▲ 了仙寺宝物館。黒船や開国に関連する資料が展示されている。

▲ 了仙寺の山門。上陸した艦隊の水兵たちは平滑川沿いの道を行進してこの山門を通り、境内に整列した。

▲上陸の碑説明板。

▲ ペリー来航記念碑の横には日米交流150周年(2004年)を記念したジョージ・ブッシュ大統領からのメッセージとペリー生誕地ロードアイランド州から贈られた火が灯され続けている。

▲ ペリー艦隊来航記念碑のペリー像。

----備考----
訪問年月日 2003年12月29日
再訪年月日  2011年1月3日 
主要参考資料 「下田の歴史と史跡」

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