萩平山城
(はぎひらさんじょう)

豊橋市石巻萩平町


▲ 萩平山城は西郷中山地区への入り口に築かれた比高80mほどの山城である。
山頂主郭部には秋葉社が建っている。社殿裏手(右側)の窪みはかつての堀跡である。

武田軍団を痛撃、
       大玉川の戦い

 萩平山城(鷹打砦ともいう)は周囲を山に囲まれた西郷中山地区(豊橋市石巻中山町)の西側開口部南側山上に築かれている。つまり山に囲まれた中山への出入り口を抑える位置にあり、防衛上かなり重要な役割を果たしたものと思われる。

 築城の時期や築城者についての詳細は伝えられていない。推測するならば、築城者に関しては戦国期にこの地を支配した西郷氏であったことは間違いないだろう。時期は西郷弾正左衛門正勝が嵩山の月ケ谷城から中山に本拠地を移して堂山城や五本松城を築いた永禄四年(1561)のことではなかったかと思われる。

 永禄四年(1561)という年は東三河にとって大きく揺れた年でもある。駿河、遠江、三河を支配する戦国大名今川義元が前年の桶狭間合戦で敗死したのを契機に西郷正勝は野田城田峯城長篠城のそれぞれの菅沼氏と川路城(設楽)の設楽氏を誘って今川氏を見限り、松平元康(徳川家康)へ属したのである。このため吉田城を拠点とする今川勢との間に熾烈な攻防戦が繰り返されることになった。

 こうした状況下で西郷正勝は山に囲まれた中山に移り、今川勢との戦いに備えたのである。しかし不運にも態勢の整わぬうちに遠江宇津山城の朝比奈泰長の夜襲によって嫡男元正ともども討死してしまった。

 その後、中山の地は正勝の次男清員によって奪回され、元正の子義勝が当主となった。元亀の頃(1570-73)になると東三河は新たな敵、甲斐武田信玄の侵略を受けることになる。当主義勝は元亀二年(1571)の竹広(新城市)における武田秋山晴近勢との戦いで戦死、清員嫡男家員が宗家を継いだ。

 この頃には田峯や長篠の菅沼氏が武田に降り、元亀四年(1573)には野田城が武田の猛攻を受けて落城してしまった。家員を当主とする西郷氏も萩平山城を整備強化して対武田戦に備えたものと思われる。

 天正二年(1574/又は元亀二年とも)、武田軍の精鋭、赤備えで知られる山県昌景勢が萩平(豊橋市石巻萩平町)から中山に攻め入った。西郷家員、父清員は野田菅沼定盈の応援を得て中山地内を流れる大玉川で山県勢を迎え撃ち、激しい戦いの後、これを撃ち破って鳳来寺辺りまで追撃したといわれる。

 確たる記録には出てこないが、この戦いで萩平山城は西郷勢の拠点として重要な役割を担ったと伝えられている。

 今も城山の麓には山県勢を撃ち破った大玉川が流れている。

▲ 西郷氏の主城となった五本松城跡から見た萩平山城(左の山)。
 ▲ 登城口は城山の北側にあり、愛知県林業公社営造林地の標柱が入口に立っている。
▲ 主郭秋葉社の北側には浅いがかつての堀切跡が残る。

▲ 主郭平坦部。

▲ 主郭の周囲には腰曲輪が廻っている。

▲ 城山から北側を展望。正面中央の山の反対側に西郷氏の盟友菅沼定盈の野田城がある。

▲ 城山の東側から見た萩平山城全景。

----備考----
訪問年月日 2011年3月19日
主要参考資料 「西郷氏興亡全史」他

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