川路城
(かわじじょう)

市指定史跡

新城市川路


▲ 新城市によって建てられた「大坪(川路)城跡」の標柱。大坪の地名はここの
北隣の字であるので、地元では川路城と呼ばれている。そのほうが自然であろう。

設楽家分裂

 川路城は設楽氏の主城跡として知られている。東三河の国衆としては奥平氏や菅沼氏が際立っており、設楽氏の動向はあまり知られていないように思える。

 この地における設楽氏の歴史は古い(増瑞寺屋敷)。設楽氏は岩広城を本城としていたが、川路城を築いたのはいつ頃であったのかは定かでない。応永の頃(1394〜1427)とも云われている。

 いずれにせよ、室町期の設楽氏は足利将軍の奉公衆として名を残し、一族内にも目立った争いも無く結束していたものと思われる。その設楽氏に波紋を起こしたのが永禄三年(1560)の桶狭間合戦であり、それに続く松平元康(徳川家康)の自立であった。

 この松平元康への従属をいち早く実行したのが設楽貞通であった(三河物語)。時期については永禄四年とも七年とも云われている。いずれにしても徳川家康が東三河を平定する以前のことであったであろう。「三河物語」には、貞通が家康に従うために居城を去り、妻子を引き連れて岡崎に移った様子が描かれている。そして東三河の国侍で味方となったのは「設楽が一番」と表現している。

 つまり設楽一族が未だに今川方に未練を残し、その去就に迷っている段階で貞通は単独で家康のもとへ走ったということであろう。

 この貞通、実は西三河足助城主鈴木氏(真弓山城)の出身で、設楽貞重の養子となって設楽の地へ入ったのである。そして本家筋の設楽清広の娘の婿となっていたのである。貞重と清広の関係は残念ながら判然としていない。

 その後、貞通は舅の清広を説いて徳川方に付かせたようで、共に家康の命を受けて戦功を上げている(設楽家系譜)。

 元亀元年(1570)、清広が六十三歳で没した。嫡子清政は若年であったため、年上で義兄弟でもある貞通が家康の命を受けて後見人となった。清政の没年から察するに元亀元年当時は二十三歳となり、はたして後見人が必要であったのか疑問である。おそらくは家康が設楽一族を徳川方に取り込んでおくためにあえて貞通を後見人としたと思われる。

 天正二年(1574)、長篠合戦(長篠城)の前年のことである。清政は貞通が徳川一辺倒であることに我慢がならず、家伝来の系図や重器を持ち出して出奔してしまったのである。記録には武州へ赴く、とある。当然のことながら清政に従った面々もいたはずである。

 清政出奔後、設楽家の領地は貞通が相続した。長篠合戦設楽原の戦いでは、貞通は設楽勢五百を率いて樋田に進出、武田勢を多く討取って戦功を上げた。

 その後の家康の関東移封に際し、貞通は嫡男貞清とともに武蔵国礼羽(らいは)に千五百石を拝領して陣屋を構えた。後に二千石となり、直参旗本として明治に至るのである。

 貞通の次男貞信は慶長六年(1601)に分家して設楽の地に戻り、竹広に陣屋を構えた。この竹広設楽氏八代貞文の三男が幕末の幕府外交で活躍した岩瀬忠震である。

 さて、故郷を捨てて武州へ赴いた清政である。清政は北条氏直に仕官して八王子城を守った。天正十八年(1590)北条氏滅亡により、八王子城を落去して野に下り、土着した。

 なお、川路城に隣接するようにして小川路城、端城と呼ばれる城址が残っている。何れも川路城を本城とした出城であるとの見解があり、そう見たほうが自然であろうと思われる。
 ▲ 川路史跡研究会によって建てられた「端城城址(史跡)」の標柱。川路城の南東300mにあり、連吾川を隔てた対岸に位置する。
▲ 新城市によって建てられた「小川路城跡」の標柱。この標柱の背後に土塁の一部が残っている。川路城の南250mにあり、城址の南側は大宮川の断崖となっている。

▲ 天正三年の長篠合戦設楽原の戦いに際し、徳川勢の大久保兄弟がここに布陣したことを示す石柱。川路城の南150mほどの連吾川沿いにある。合戦前夜には徳川方の軍兵が川路城、小川路城、端城などにも詰めたであろうことが察せられる。

城址東北隅に残る「お鷹井戸」と呼ばれる井戸跡。歴代の城主が鷹狩の鷹の飼育に温度変化の少ないこの井戸水を用いたという。

▲設楽原歴史資料館前に建つ岩瀬忠
震の像(2017年)。

----備考----
訪問年月日 2008年3月
画像追加 2017年5月27日
主要参考資料 「設楽原歴史資料館研究紀要」
「日本城郭全集」他

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