(はちおうじじょう)
国指定史跡・百名城
東京都八王子市元八王子町3
▲八王子城は北条氏照が滝山城に替わる戦闘用の城として築いたもので
ある。小田原合戦時には城主不在にもかかわらず激闘の末に落城した。
(写真・御主殿正門跡。)
小田原城の身代わりとなった城
戦国期、現在の八王子市とその周辺を支配していたのは関東管領で武蔵国守護である山内上杉氏の重臣大石氏である。大石氏は守護代として多摩郡西部(八王子市、日野市)を中心に勢力を拡大し、永正十八年(1521)には大石定重が滝山城(八王子市高月町)を築いて本拠としていた。 慢性的な戦乱状態が続く武蔵国内に後北条氏の矛先が加わり、関東の情勢は新たな局面を迎えることになる。天文十五年(1546)の河越夜戦では古河公方、山内上杉氏、扇谷上杉氏の連合軍八万が八千の北条氏康勢に敗れ去り、武蔵国における後北条氏の支配は揺るがぬものとなって行く。 河越夜戦後、大石定久は後北条氏に降り、その麾下に属することになる。永禄二年(1559)には北条氏康の次男氏照を娘比左の養子に迎え、家督を譲ってしまった。 大石家を継いだ氏照は大石源三氏照または由井源三を名乗り、領地支配と拡大に活躍して行く。永禄十年(1567)の武田勢との戦いでは滝山城を守り通して奮戦の末、武田勢を撃退している。その後氏照は北条姓に復して下総、下野方面の進出を担当することになり古河公方の後見となって反北条勢力の一掃に貢献する。北条氏の軍団長として氏照の働きは抜群で氏政の信頼が最も厚い武将であった。 滝山城の北条氏照がさらなる要害を求めて八王子城の築城に踏み切るのであるが、その時期は諸説あって明確ではない。いずれの説も天正期(1573-92)のこととされている。滝山城は天正八年(1580)頃まで機能していたことが確認されているので八王子城の築城もこの頃には工事が進められていたものと思われる。 天正六年(1578)、御館の乱に際し氏照は上杉景虎(氏照の弟)支援のため北条勢を率いて越後へ出兵したが冬の到来により成す術もなく撤収している。翌年、協力関係にあった甲斐の武田勝頼が上杉景勝側に付いたことで甲相同盟が破綻、景虎は自刃して果てた。これにより氏照は武田との抗争を意識せざるを得ない状況となり、八王子城の築城を具体的に進めるようになったのではないだろうか。 天正八年(1580)、後北条氏は織田信長に従属するために使者を安土城へ派遣した。氏照の重臣間宮綱信もこの使者に加わり、安土城の様子を氏照に報告したものと思われる。八王子城の御主殿虎口の石段は安土城の大手道を彷彿させるものとなっている。 その後、織田信長が本能寺に斃れ、羽柴秀吉が天下人となり、やがて関白に就任して豊臣姓を名乗り天下平定を強力に推し進めることになる。九州征伐を終えた後、秀吉は天正十五年(1587)には関東惣無事令を発して私闘を禁ずることを通告した。これはあきらかに北条氏に対する挑戦である。この後、北条氏は秀吉との対決に備えて突き進むことになる。 主戦派であった氏照は滝山城から築城工事の進む八王子城に居城を移し、軍備・軍役の増強を実施した。一方、小田原城では主戦派と穏健派の議論が続いたが結論が出ないまま月日だけが経過していた。俗に言う「小田原評定」である。 天正十七年(1589)十月、上野国にて真田氏の名胡桃城を北条方が奪取するという事件が勃発した。惣無事令違反と決めつけた秀吉は十二月、小田原攻めの陣触を発した。 天正十八年(1590)一月、北条氏も陣触を発して諸将の小田原参集を命じた。八王子城の氏照も精兵を率いて小田原城に入り、八王子城には城代として横地監物吉信を置き、家臣の狩野一庵、近藤出羽守綱秀、中山勘解由家範らが農民や山伏らを城兵として指揮した。城内には領内の婦女子らも籠城、総勢三千人ほどであったと言われている。 豊臣勢による戦闘は三月下旬から始まり、上野国松井田城攻め、伊豆国山中城攻めを皮切りに北条方の諸城の攻略が進められた。関東方面に進撃した豊臣勢は前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら三万五千とされている。松井田城、厩橋城、箕輪城、松山城、鉢形城などの諸城を次々と落し、八王子城に迫ったのは六月二十三日未明であった。 大手口方面からは前田利家、真田昌幸、大道寺政繁、松平康国、上杉景勝らの軍勢が、搦手口からは前田利長、直江兼続、真田信之らの軍勢が霧の中で一斉に進撃を開始した。 大手口では夜明け前に山下曲輪が突破され、守将の近藤綱秀は後方のあんだ曲輪に移り抵抗を試みるも敵わず討死した。大手方面の別路を突進した上杉景勝勢は城方の抵抗を排除しつつ太鼓曲輪に迫った。 夜が明け、朝陽が射す頃には上杉勢と真田勢が城兵の反攻を押し返して御主殿に突入、建物群に火を放った。御主殿に避難していた婦女子は阿鼻叫喚の中で自刃したり滝に投身して自害してしまった。御主殿を焼き払った攻め手は一丸となって城山への総攻撃に移る。 城大手の前衛である金子曲輪の激戦で守将の金子家重が討死して突破されてしまう。続いて豊臣方は中腹の防御線(無名台、山王台、柵門台、櫓台、高丸馬蹄段)に達し、搦手口の直江勢も本丸北側下の曲輪群に達した。 本丸直下では二の丸に大石照基、三の丸・中の丸に狩野一庵、高丸に中山家範らの手勢が固めた。まず、高丸が前田、松平勢の猛攻にさらされ、守将中山家範は中の丸へ撤退して落とされてしまう。攻め手は搦手の直江勢と合流して三の丸に殺到する。守将狩野一庵は乱戦の中に討死を果たした。二の丸は真田と上杉の軍勢に攻め込まれ、守将大石照基は本丸へ退いた。大石照基は本丸に陣する城代横地監物に城を脱して小田原城の主君氏照へ城の最期を伝えるように促した。 中の丸に移った中山家範もここを最期と攻め手と激闘乱戦の後、妻と刺し違えて自害した。戦後、前田利家から中山夫妻の最期を聞いた徳川家康は「武士の鑑(かがみ)なり」と感じ入り、その子らを召し抱えたという。 正午過ぎには本丸を残すのみとなり、最後まで残ったのは大石照基以下、比留間大膳、志村将監、尾谷兵部、浅尾彦兵衛ら数十人であったという。八方から攻め寄せる敵兵を切り伏せながらも最後には一塊の陣形となり、「我ら由井衆ここにありっ」と叫びながら全員が壮絶な討死を遂げ、八王子城の最期を飾った。 城を脱した城代の横地監物は檜原城(西多摩郡檜原村)に至り、さらに奥多摩の山中小河内峠で力尽きて自害して果てたという。 落城後、八王子城の守将らの首は小田原城内に届けられた。七月五日、北条氏直は降伏を決断して小田原城を開城した。八王子城の落城と悲劇が氏直の背中を押したことは想像に難くない。言うなれば八王子城は小田原城の身代わりとなって落城したとも言えようか。 秀吉は氏直を助命したが氏政と氏照には切腹を命じた。ちなみに松井田城主で豊臣方に降伏し、八王子城攻めに奮闘した大道寺政繁も切腹させられている。 落城後の八王子城は上杉景勝の管理下に置かれ、その家臣須田満統が城代となるが、すぐに家康の関東入りとなって城は廃城となった。 |
▲中の丸の八王子神社。右の石段の先が本丸となる。 |
▲御主殿跡正面の石垣。 |
▲駐車場近くの管理棟。 |
▲管理棟の向かい側の広場は山下曲輪跡。未明に前田勢の突入によって陥落した。 |
▲八王子城跡自然公園。八王子城本丸への登山口である。 |
▲所々、石段も設置されている登山道。 |
▲登山口から15分で金子曲輪跡に到着。スローペースでの登山ですので健脚の方なら半分位の時間かな。金子曲輪は大手口の前衛陣地であったが激闘の末に守将金子家重は討死した。 |
▲金子曲輪から12分。柵門台跡である。豊臣方の前田勢などとの戦闘で陥落。次第に城兵は山上へと追い詰められて行くことになる。 |
▲山上に近くづくにつれて石垣が目につくようになる。 |
▲柵門台から12分。高丸跡である。守将のひとり中山家範が手勢を率いて布陣したが真田・上杉勢を相手に奮戦したものの敵わず、中の丸に撤退している。 |
▲登山道は高丸から三の丸東側を巡って続く。ここはパノラマ展望台と案内図にある場所だ。東京都が一望できる絶景ポイントである。遠くにはスカイツリーを確認できる。 |
▲高丸から8分、登山口から約50分。中の丸に到着。ここには八王子神社が鎮座する。 |
▲中の丸では高丸から移った中山家範らが最期の激闘を展開した。家範は部下の討死を見届けると夫に従ってきた妻とともに刺し違えて果てたという。 |
▲中の丸から本丸への登山口。本丸では守将の一人大石照基とその手勢が一丸となって全員が斬り死にして果てたという。 |
▲二の丸南側の石垣。 |
▲八王子城を下山した後、御主殿跡へと向かう。御主殿は城主屋敷の置かれた曲輪で、山麓部にある。 |
▲御主殿正面の入口に設けられた曳き橋。 |
▲橋を渡ると石垣で固められた枡形となっている。 |
▲枡形を抜けて御主殿正門へと続く石段。安土城の大手道石段を彷彿させる。 |
▲御主殿の入口。 |
▲御主殿跡。ここに城主屋敷などの建物が建てられていた。ここには上杉勢と真田勢が乱入して火を放ち、避難していた婦女子らが自決などして地獄の様相を呈したという。。 |
▲御主殿下の石垣。 |
▲落城の際に女性たちが投身して自害したという御主殿の滝。。 |
▲この日の滝は水量が無かった。落城当時、下流(城山川)の水が血で赤く染まり、三日三晩消えることがなかったという。 |
▲管理棟前の城址碑。 |
▲見学者用駐車場入り口の城址碑。 |
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訪問年月日 | 2018年12月29日 |
主要参考資料 | 「八王子城みる・きく・あるく」 |
↑ | 「決戦!八王子城」他 |