(にしがわじょう)
豊橋市石巻西川町
▲ 西川城は永禄四年(1561)の東三河混乱期に今川方牧野氏に
対して築かれたともいわれるが、その詳細については不明で
ある。写真は主郭南側に設けられた虎口跡と考えられている。
宗家の危機を乗り越えて
東三河の西郷氏の歴史は、特にその初期のこととなると分らないことが多い。大永三年(1523)頃に嵩山(すせ/豊橋市嵩山町)辺りを押領して月ケ谷城を築き、今川氏に属したといわれる。初代当主の名は正員といわれるが、これも確たるものではないようだ。二代正勝の頃から西郷氏の動きも見えてくるようになる。 永禄三年(1560)に今川義元が桶狭間に斃れると、正勝はその翌年に松平元康(徳川家康)の勧めに応じて今川氏を見限ったのである。しかも菅沼氏や設楽氏を誘っての今川離反であったから、今川氏の怒りは西郷氏に集中したともいえる。 正勝は月ケ谷城から中山(豊橋市石巻中山町)に五本松城を築いて移った。しかし、移転からわずか数か月にして今川勢の夜襲を受け、正勝は嫡男元正ともども討死してしまったのである。宗家滅亡の危機である。残されたのは元正の幼い遺児義勝だけであった。 正勝次男の清員はこの時、人質として岡崎に居た。別説では五本松落城の際に今川方に生け捕られたが、途中で脱出したともいわれる。ともかく清員は元康に願い出て本多百助信俊兄弟、大須賀五郎兵衛某、同五六左衛門某、植村出羽守家政、渡辺久左衛門信、高井四郎左衛門某らの兵力を借りて本領を奪還した。 西川城はこの清員の居城として知られている。清員が築城したのか、それ以前から西郷氏の支城として存在していたのか、その詳細は分からない。 この年(永禄四年/1561)十一月、清員は元康から本領を与えられるが、これを辞退して元正の遺児義勝を当主として立て、自らは後見、陣代となることを願い出て許された。 「あっぱれ、神妙な心得。武士の鏡じゃ」 元康には清員の無私、無欲の清々しさに感動したことと思われる。 その後、清員は松平改め徳川勢酒井忠次の配下に属して姉川合戦などに出陣して活躍した。 元亀二年(1571)三月、清員は成人した義勝とともに武田軍秋山晴近勢迎撃のために竹広(新城市)に出陣、菅沼定盈、設楽貞通らとともにこれを撃退した。しかし残念なことに当主義勝がこの戦いで戦死してしまったのである。 清員は家康の指示に従って宗家断絶を回避するため、嫡男家員を義勝の娘の婿にして西郷嫡流を継がせた。そしてみずからは第一線から引退したのである。義勝を失った清員の落胆はいかばかりであったろうか。 宗家を継いだ家員は父清員の意志を継いで三方原合戦や長篠合戦など各地の戦いで西郷家当主として戦い抜いた。 天正六年(1578)、亡き義勝の妻お愛(清員の姪)が清員の養女として家康の側室となる。彼女は西郷の局と呼ばれ、二代将軍秀忠の生母となったことで知られる。 天正十八年(1590)、家員は家康の関東移封により、下総生実に五千石を拝領して西郷を去り、西川城も廃城となった。お家存続に生きた清員は文禄三年(1594)に没した。 西郷家は家員の後、忠員、康員と続き、正員の代に安房東条一万石の大名となった。 寛文元年(1661)、吉田城主小笠原長矩の弟長秋が二千石を分知し、元禄十年(1697)まで陣屋がここ西川城跡に置かれたという。 |
▲ 主郭東端の櫓台跡と堀切跡(手前)。 |
▲ 大福寺裏手の登り口。この道を進むと土塁の切れ間が現れる。虎口跡と考えられている。 | ▲ 虎口付近の土塁。 |
▲ 主郭平坦部。 |
▲ 主郭南縁部を廻る土塁跡。 |
▲ 主郭東端の堀切跡。 |
▲ 主郭から北方を展望。遠く本宮山が見える。 |
▲ 城址北側斜面。カタクリ山とも呼ばれ、その時期には多くの花見客が訪れる。 |
▲ 城址北側斜面に立つ説明板。 |
▲ 主郭南側の大福寺。境内は二の曲輪であったと比定される。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2011年4月17日 |
主要参考資料 | 「西郷氏興亡全史」他 |