石田屋敷
(いしだやしき)

滋賀県長浜市石田町


▲石田屋敷は土豪石田氏の館跡であったとされ、戦国期には
豊臣秀吉の側近であった石田三成の出生地とされている。
(写真・石田屋敷跡に建つ石田治部少輔出生地碑)

三成の故郷

秀吉と三成の出会いの逸話として有名な三献茶の伝承がある。その舞台となった寺が石田村の東1.6kmの観音寺であったとされる。

三献茶の伝承とは「長浜城主となった秀吉はある日、鷹狩の帰りに喉が渇いてある寺に立ち寄り茶を所望した。これに対応した寺の小姓は大きめの茶碗にぬるめの茶を一杯にして出した。秀吉はこれを一気に飲み干し、もう一杯頼んだ。小姓はやや小さめの碗にやや熱めの茶を出した。秀吉はこれを飲み干すとさらにもう一杯所望した。小姓は今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。秀吉はこの心配りに感じ入り、この小姓(後の三成)を家来にした」というはなしである。三成の父で石田村の土豪石田正継はこの観音寺の有力な檀家であったらしい。

三献茶の伝承はさておいて、天正二年(1574)、羽柴秀吉が長浜城を築いて居城とした頃、城の東5kmほどの石田村から一人の若者が秀吉の近習として出仕するようになった。石田佐吉、後の三成である。十五歳とも十八歳であったとも言われている。

石田氏はここ石田村の土豪で当主は石田正継、三成の父である。正継は秀吉が横山城(石田村の東北1.4kmの近距離にあった)在番時代に繋がりを持っていたものと思われ、その関係で次男の佐吉を秀吉のもとに差し出したものと思われている。

石田氏の出自に関してはよく分からないが、三成の長男重家が出家した後に著した「霊牌日鑑(れいはいにっかん)」によれば寿永三年(1184)に木曽義仲を討った石田為久を初代としている。為久は近江国石田村を恩賞として与えられて移住、その後代を重ねて室町期には京極氏に仕えていたらしい。

長浜で秀吉に仕えるようになった三成はその後の中国攻めに従軍、織田信長亡き後の賤ヶ岳の戦いでは先駆衆に数えられている。天正十三年(1585)には従五位下治部少輔に叙任、この頃から上杉景勝の重臣直江兼続と懇意となる。

天正十四年(1586)、三成は堺奉行に任ぜられるが、代官として父正継が赴任した。天正十六年(1588)には兄正澄が堺奉行を引き継いだ。文禄四年(1595)に三成が北近江四郡十九万四千石を与えられて佐和山城主となった際、多忙の三成を援けて正継が城代を務めるなどして領国経営に携わっている。まさに一家をあげて秀吉の側近としての三成を支え続けたといえる。

慶長三年(1598)、秀吉没。慶長四年(1599)、前田利家が没した。大坂では徳川家康がその存在を大きくして行くことになる。これに加えて武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政ら七将が三成を襲うという事件が起きた。家康の仲裁で事なきを得たが三成は佐和山城への蟄居を余儀なくさせられてしまう。豊臣家をないがしろにする家康に対して三成は挙兵を決意するにいたるのである。

慶長五年(1600)七月、三成は盟友大谷吉継に家康討伐の秘事を打ち明け、挙兵した。三成は直ちに大坂へ行き、西軍勢を組織してまずは伏見城を攻略、その後は東進して大垣城を拠点とした。その間、父正継は佐和山城を守備、兄正澄は愛知川(滋賀県愛知郡愛荘町)に関所を設けて家康に従軍しようとする諸大名を止めて西軍に味方させるために尽力した。

九月十五日、関ヶ原の戦い。三成の必勝の策は小早川秀秋と脇坂、赤座らの裏切りと毛利、吉川の内通によって敗れた。三成は再起を期して伊吹山中へ姿を消し、正継と正澄は佐和山城に二千八百の兵とともに籠った。十八日、小早川秀秋らの城攻めによって落城。正継、正澄は自刃して果てた。後日、憔悴した三成は捕縛され、刑場の露と消えた。

現在、石田屋敷の跡地には三成関連資料を展示する石田会館が建てられ、周辺には三成像や関係石碑などが建てられており、三成ファンの聖地となっている。


▲石田会館の西側の池。「堀端池」または「治部池」と呼ばれるもので、かつて石田屋敷の堀の遺構であると言われている。

▲石田会館敷地内の「石田三成公」の像。

▲県道509号石田バス停付近。この辺りから石田会館にかけての一帯が屋敷跡とされる。

▲バス停付近に建つ「石田治部少輔三成屋敷跡」の案内碑。

▲同じくバス停付近に建つ「石田三成公邸跡」の案内碑。

▲石田会館。

▲会館前に建つ「石田三成公屋敷跡」の碑。

▲会館地内に建つ「顕彰歌石田三成公」の碑。

▲会館近くの八幡神社。この裏手に石田三成供養塔がある。

▲入口に建つ「石田三成公一族及家臣供養塔」の碑。

▲一か所に集められた供養塔と発掘された墓石群。

----備考----
訪問年月日 2022年7月31日
主要参考資料 「三成伝説」他

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