豊臣秀吉がまだ三十代半ばの頃、羽柴秀吉と名乗っていた天正元年(1573)九月、主君織田信長から小谷城攻略の軍功を認められて江北三郡の所領と小谷城を与えられた。姉川合戦(元亀元年/1570)以来、横山城の城番として浅井攻めに尽力したことに対する功績に信長が報いたのである。
天正二年(1574)夏頃、秀吉は琵琶湖岸の今浜に築城、同時に城下町の建設を始めた。琵琶湖の水運を取り込んだ商業重視の領地経営が目的であったようで、信長の意向に沿った建設であったと見られている。
ところで、今浜に城館を構えたのは秀吉が最初ではないようである。文亀・永正の頃(1501-21)、北近江守護京極高清から江北三郡の仕置きを任されたという上坂治部大夫景重が今浜に城を構えたことが伝えられており、後に小谷城主浅井亮政に攻め落とされて破却されたと言われている(「諸国廃城考」)。この今浜城、今となってはその規模はおろか正確な所在すら分からなくなってしまっている。
天正四年(1576)春頃に城が完成した。秀吉は小谷城から新たな城に移ると今浜の地名を長浜と改めた。信長の一字を戴いたのだとも言われている。
一城の主となった秀吉であったが、信長の命で出陣することが多く、天正五年(1577)以降は中国攻略を担当して姫路城に出張、長浜不在の状態が続くことになる。秀吉不在中の政務は宿老の杉原家次、木下家定や養子として迎えた信長四男の秀勝らが執ったとされている。
秀吉は長浜城主時代に多くの近江出身者を家臣に加えている。近江衆と呼ばれた石田三成、長束正家、藤堂高虎、小堀正次、片桐且元、脇坂安治、田中吉政らである。
またこんな話がある。秀吉は当初、城下町集住と繁栄のために年貢や諸役を免除していたが、この優遇処置を停止しようとしたことがある。この時、妻おねが秀吉を諫めたというのである。
天正十年(1582)六月、本能寺の変が勃発。江北では京極高次や阿閉貞大らが明智光秀に応じ、中国攻めで秀吉不在の長浜城に兵を向け、占拠してしまった。この少し前に秀吉の女房らは広瀬兵庫助の機転で美濃国広瀬に避難して無事であった。
中国にいた秀吉は直ちに兵を返し、山崎合戦で光秀を滅ぼし、清須会議に臨んで織田家中の主導権を得、家臣筆頭の柴田勝家と対立するに至るのである。
清須会議後、江北三郡は柴田勝家領となり、勝家養子の柴田勝豊が長浜城主となった。
十二月、秀吉は勝家に対して挙兵した。長浜城の勝豊は大谷吉継の説得により秀吉方となり、城は秀吉の本陣となった。
天正十一年(1583)四月、賤ヶ岳合戦。勝ちに乗じた秀吉は一気に越前北ノ庄城に駒を進め、勝家を滅ぼした。凱旋した秀吉は大坂城の築城に取り掛かった。
天正十三年(1585)、大坂城本丸が完成すると秀吉は山内一豊を長浜城主とした。この年、天正大地震によって一人娘の与祢が亡くなったことが知られている。
天正十八年(1590)、一豊は遠江掛川城に移り、長浜城は無主となり荒廃したものと思われる。
慶長十一年(1606)、徳川家康は大坂城包囲のために内藤信成(駿府城主四万石)を長浜城主(四万石)とし、長浜藩が成立する。荒廃した長浜城は天下普請により大改修が実施された。
慶長十七年(1612)、信成、病没して嫡男信正が継ぐ。
慶長二十年(1615)、大坂の陣後、内藤信正は摂津高槻城四万石に移封され、長浜城は廃城となり、藩も廃された。城の資材や石垣の大半は彦根城築城に使用されたと伝えられている。
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