彦根城
(ひこねじょう)

国指定特別史跡・国宝、百名城

滋賀県彦根市金亀町


▲彦根城は徳川譜代彦根藩主井伊氏の居城として関ケ原合戦後に築城された。その後、
井伊氏は一度の転封もなく彦根城主として続くと同時に幕閣としても重きをなした。
(写真・国宝の彦根城天守。)

徳川譜代三十万石、井伊氏の居城

 関ケ原の合戦(慶長五年/1600)で敵中を突破して退却する西軍島津勢を猛追して活躍した井伊の赤鬼こと井伊直政は翌年一月、上野高崎城十二万石から近江佐和山城十八万石に加増転封となった。

 佐和山城は西軍を指揮した石田三成の居城であり、古くより近江の要衝として重要視されてきた城でもある。五奉行筆頭の石田三成によって城は拡充され、城下町も整備されていた。しかし、中世的な山城であることと山麓の城下町整備にも限界が見えていたため、入部した井伊直政は湖岸に面した磯山(米原市磯)へ新築移城を考えていたらしい。何よりも石田三成の居城であったことが気に入らなかったとも言われている。

 ところが慶長七年(1602)二月に直政は没してしまう。関ケ原の戦傷が悪化したためと言われている。家督は長男直継が継いだが若年のため家老の木俣守勝、鈴木重好らがこれを補佐した。

 木俣守勝は直政の遺志を継いで居城を移すことを徳川家康に相談した。磯山か彦根山に移すか、現状のまま佐和山を居城とするかの三案であったという。結果は佐和山城を廃して彦根山に新たな城を築くことになった。彦根山は金亀山(こんきやま)とも呼ばれる。

 慶長九年(1604)七月、築城工事が開始された。築城には幕府から六人の奉行が派遣され、尾張、越前など十二の大名が助役を命ぜられた。いわゆる天下普請である。

 この当時、大坂城には豊臣氏がいまだ健在であり、地理的にも湖東の要衝にあることから工事は急ピッチで進められた。石垣や建造物は大津城、安土城長浜城小谷城、佐和山城、近江八幡城といった城から集められた。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から、太鼓門や佐和口多門櫓は佐和山城から、西の丸三重櫓は小谷城から移築されたと言われている。

 同年末には鐘の丸が完成し、藩主直継は佐和山城から彦根城へ移った。翌慶長十年(1605)には徳川家康自ら築城の様子を見分したと言われている。

 慶長十二年(1607)頃、本丸天守が完成。直継は鐘の丸から本丸御広間へ移った。

 慶長十九年(1614)、大坂冬の陣。直継は病弱であったので直政次男の直孝が軍勢を率いて出陣した。城南に布陣した赤備えの井伊勢は同じく赤備えの真田勢と真田丸前で戦闘となり、大きな損害を出してしまうが、家康はその武勇を褒めたという。

 翌年二月、幕命により直継は上野安中三万石に移され、直孝が彦根藩主となった。直孝は五月の夏の陣では木村重成を討ち取り、大坂城内に進撃して豊臣秀頼らを山里曲輪に滅ぼす活躍を見せている。戦後も直孝は三代将軍家光の後見役となるなどして幕閣の宿老として重きをなした。

 築城工事は元和二年(1616)から彦根藩単独で再開され、表門、御殿、城下町が整備された。工事完了は元和八年(1622)とされている。

 石高も幾度の加増を重ね、寛永十年(1633)には譜代最高の三十万石に達した。その後、井伊氏は転封もなく十七代(数え方に諸説あり)続いて明治に至った。その間、直興、直幸、直亮、直弼らが幕府大老を務めている。


▲佐和口の多門櫓。佐和口門の右側(写真手前)の多門櫓は昭和35
年(1960)にRC造りで再建され、内部は開国記念館となっている。


 ▲彦根駅前の井伊直政の騎馬像。

▲大手前駐車場に車を停めると最初にお目にかかるのがこの石垣。きれいにRを描いた石垣は上段を鉢巻石垣、下段を腰巻石垣と呼ぶ。

▲内堀に架かる大手門橋。多くの観光客は反対側の表門口から登城するが、わたしは大手門口から登城した。

▲大手門枡形。その名の通り、築城当初の正面入口である。後に表門口が正面入口となる。

▲大手門石垣。

▲大手山道。

▲大手山道を上がると正面に天秤櫓が見えてくる。

▲大手山道を上がりきると鐘の丸と太鼓丸の間の大堀切に出る。

▲大堀切から見上げた天秤櫓の左側。

▲大堀切から一旦鐘の丸に上がる。

▲鐘の丸。築城時、最も早く構築され、藩主井伊直継が佐和山城から居を移した場所である。

▲天秤櫓。彦根城特有の櫓形式である。断定はされていないが、長浜城の大手門を移築したものと言われている。

▲天秤櫓の右側。石垣の積み方が左右で違っている。橋の右側が築城当初からの牛蒡積み、左側は嘉永7年(1854)の修理で積み替えられた落し積みである。

▲天秤櫓入口の橋から見た大堀切。

▲天秤櫓の内側。

▲天秤櫓内部に入る。

▲天秤櫓から見た佐和山城。

▲天秤櫓から太鼓門へ向かう。

▲太鼓門櫓。

▲鐘突所の時報鐘。今でも朝6時から夕方6時まで3時間おきに鳴らされている。

▲太鼓門。

▲太鼓門を入ると本丸である。

▲彦根城天守。ずんぐりしていて色々な破風で飾られている天守は彦根城天守の特徴である。

▲天守台の牛蒡積みの石垣。

▲本丸の北に続く西の丸。

▲西の丸三重櫓。

▲西の丸の虎口。

▲西の丸北側の堀切。

▲堀切の北側の出丸。

▲外側から見た西の丸三重櫓。

▲山崎山道を下る。

▲山崎山道を下って東側に出る。

▲山側に設けられた石垣。登り石垣と呼ぶ。攻め手の山中移動を阻止するためのもの。

▲黒門口。

▲黒門橋から見た内堀。

▲楽々園(槻御殿)の奥書院。

▲玄宮園。

▲金亀児童公園の井伊直弼大老の像。

▲井伊直弼の功績をたたえる歌。「一身に責負ひまして立ちましし大老ありてこそ開港はなりぬ」

▲内堀と表御殿。表御殿は彦根城博物館として外観復元されたもの。

▲佐和口。左側が佐和口多門櫓。

▲佐和口東側に続く多門櫓。

▲中堀の南側にある埋木舎。井伊直弼が若き時代を過ごした屋敷。

▲井伊直弼(右)と長野主膳(左)。

▲表門橋の前に建つ「琵琶湖八景月明彦根の古城」碑。

----備考----
訪問年月日 2015年9月5日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「彦根城ガイドブック」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ