大津城の築城は豊臣秀吉の天下が固まった天正十四年(1586)のことと見られている。織田信長時代の近江攻略の拠点として、また叡山監視の城としての坂本城は重要な役目を果たしていたが、すでにその戦略的価値は無くなっており、秀吉は北国物資の中継基地としての必要性から坂本城を廃して大津城を新築したのである。
城主は坂本城城主であった浅野長吉が大津に移るかたちとなった。長吉は湖岸の諸浦から船を集めて課役免除の大津百艘船という制度を作って水運を保護し、大津に物資の集散地としての機能を確立させた。
天正十七年(1589)、増田長盛が城主となり、天正十九年(1591)には新庄直頼が城主となった。
文禄四年(1595)、直頼が高槻城に移り、京極高次が大津城主となる。
慶長五年(1600)、関ケ原の戦いの年である。六月十六日に上杉討伐のために大坂を出陣した徳川家康は十八日に大津城に入った。この時、「御密談あり」と伝えられている。家康と高次の間に今後の行動に関してのやりとりがこの日にあったのかも知れない。
家康が畿内を去った後、挙兵した石田三成らの西軍は八月一日に伏見城を落城させた。高次の立場は微妙なもので妻の常高院の姉は淀殿であり、妹の崇源院は徳川秀忠の妻であったのだ。
高次はとりあえず西軍の前田討伐に従うことにして八月七日、大津城を二千の軍勢を率いて出発した。しかし、その進撃速度は遅々としていて湖北の余呉に達したのは二十日後であった。
この頃にはすでに東軍先鋒隊(福島正則、黒田長政ら三万五千)が岐阜城を落として大垣城外の赤坂に集結している。高次は意を決して海津(高島市マキノ町)から船で湖上を渡って帰城、籠城と覚悟を決めた。兵は約三千であった。高次の東軍加担は西軍諸将をはじめ京阪の人々も大いに驚いたようだ。高次の籠城は九月四日とされ、六日には城下一帯を焼き払った。
西軍勢一万五千の攻撃が始まったのは同月九日である。毛利元康を大将とする、立花宗茂、小早川秀包(久留米城主)、筑紫広門らの九州勢が大津城に殺到した。とくに立花宗茂の鉄砲隊の働きは激しく、城側は狭間を塞いで鉄砲玉を防ぐといった有様であったという。
西軍勢の本陣長等山からは大砲が撃ち込まれ、天守二層に命中して高次の姉松の丸殿が気絶したというエピソードがある。多勢に無勢、やがて外堀が埋められて三の丸、二の丸が落ちた。十三日には本丸をめぐる戦闘となり、ついに十四日には淀殿の和睦勧告を受け入れて高次は開城を決意した。
十五日、高次は城兵と女子供二、三百人を引き連れて城を退去、高野山へ向かった。この日、関ケ原では東西両軍が激突、天下分け目の決戦が繰り広げられ、その日のうちに東軍の勝利が確定した。
家康は西軍一万五千を足止めにした功績を認め、若狭一国八万五千石(小浜城)を高次に与えた。
二十日、家康は本丸だけになった大津城に入り、朝廷や公家の慰労・挨拶を受けた。滞在は7日間で、この間に関ケ原の戦後処理などを行ったとされる。
戦後、大津城には徳川譜代の戸田一西(かずあき)が城主となって入ったが、翌年には膳所城が築かれて戸田一西はそちらに移り、大津城は廃された。大津城の天守は彦根城に移され、石垣や城門の一部は膳所城の築城に転用されたと言われている。
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