膳所城
(ぜぜじょう)

滋賀県大津市本丸町7


▲膳所城は関ケ原合戦後に東海道と琵琶湖の舟運を押さえる要衝として初の
天下普請で築かれた城である。琵琶湖に突き出た水城で、縄張は藤堂高虎である。
(写真・膳所城跡公園入口に建てられた模擬城門。)

初の天下普請で築かれた譜代の城

 慶長六年(1601)、関ケ原合戦に勝利した徳川家康は膳所崎(ぜぜがさき)に築城を命ずる(七年とも)。

 縄張は藤堂高虎、奉行八人。築城は諸国の大名に命じる初の天下普請で行われた。築城にあたり家康は本多正信に逢坂関の復旧か大津城の再建かを図り、正信は膳所崎が適地であることを進言、決定となったと言われる。膳所城の築城に際しては大津城の石垣や城門が転用されたらしい。

 城主は大津城三万石を与えられていた譜代戸田左門一西(かずあき)となり、膳所藩が立藩された。城主決定に際しても本多正信が「武勇に優れ、且つ天性誠実なれば、これに過ぎたるはあらじ」と三河出身の戸田一西を推挙したと言われる。

 元和二年(1616)、二代藩主戸田氏鉄が大坂の陣の戦功により摂津尼崎藩五万石に転封。本多康俊が膳所城に入部した。

 元和七年(1621)、本多康俊の跡を継いだ俊次が三河西尾藩(西尾城)に転じて菅沼定芳が入部する。

 寛永十一年(1634)、菅沼氏が丹波亀山藩(亀山城)に転じて石川忠総が七万石で入部。
 慶安四年(1651)、石川氏は伊勢亀山藩(亀山城)に転じて本多俊次が七万石にて再入部。以後十三代続いて明治に至る。

寛文二年(1662)、大地震により城が大被害を受ける。この時に本丸と二の丸を一つにして本丸とするなどの大改築が行われる。

 明治三年(1870)四月、最後の藩主本田康穣(やすしげ)は全国に先駆けて廃城願いを新政府に提出し、直ちに認可されて解体された。財政的に城の維持が困難であったからと伝えられている。


▲城跡公園の湖岸部には石垣跡の石材が湖水に洗われている。

▲公園駐車場に車を停め、本丸町交差点の横断歩道を渡ると膳所城跡公園の入口となっている城門(模擬)がある。

▲城門とともに塀や堀などが再現されていて城跡であることを強調している。

▲城門前の説明板に描かれた縄張図。

▲城門わ入ると正面に城址碑が建っている。

▲公園北側の湖岸近くには天守閣跡の碑が建っている。かつては湖面に映える豪壮な天守だったと伝えられている。

▲公園内の様子。石垣に使われていたであろう石材が随所に積まれている。

----備考----
訪問年月日 2017年1月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「大津の城」他

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