府指定史跡
大阪府高槻市城内町
▲ 高槻城の遺構はそのほとんどが失われて往時を偲ぶことはできない。現在は城址の
一部が城跡公園として整備され、「しろあと歴史館」で高槻城の歴史が紹介されている。
デウスに
仕えたサムライ
高槻城はキリシタン大名であった高山右近長房の居城であったことで広く知られている。 右近が高槻城主となったのは元亀四年(1573)のことであるが、その前に右近以前の高槻城を垣間見ておきたい。 高槻城の創始は、一般的には近藤阿刀連忠範が正暦元年(990)に居館を築いたことに始まるとされている。以後、平安、鎌倉期を通じて代々近藤氏が続いた。 元弘元年(1331)、当主近藤宗光は倒幕(鎌倉幕府)のために笠置山(笠置城)に挙兵した後醍醐天皇に供奉し、幕軍との戦いで討死してしまった。 延元元年(1337)、足利尊氏が将軍になる以前のことであるが、尊氏のもとに参じた武士のなかに駿河国入江荘の地頭入江春倫がいた。尊氏は春倫の次男春則に戦死した近藤宗光の娘を娶らせて高槻城に入れたという。これ以後、入江氏が高槻城主として室町期から戦国期にかけて代々続くことになったのである。 春則の後、入江氏の名が見えるのは174年後の永正八年(1511)に起きた深井の合戦(大阪府堺市)においてである。この頃は細川氏の権力争いの激しい時期で、京を追われて阿波に雌伏していた細川澄元方の軍が堺に上陸したために管領細川高国の命によって摂津の国衆が出陣して起きた戦いである。結果は高国方の負けであったが、この摂津国衆のなかに入江氏が入っていたのである。残念ながら当主の名は分からない。 永禄十一年(1568)九月、織田信長が足利義昭を奉じて武力上洛を果たし、勢いに乗じて三好三人衆を阿波へ追って摂津を平定してしまった。この時、入江氏は義昭のもとに参陣したことによって高槻城主であることを安堵された。当主は春景(又は春継、元秀)である。春則から十代目又は十二代目であったとも云われている。 この入江春景、翌永禄十二年一月に三好三人衆が信長の留守を狙って将軍義昭の居所京都六条本圀寺を襲った際に三好方に味方した。畿内に生きる入江氏にとっては細川、三好の権力闘争の間でいかに生き残るかがすべてであったに違いない。信長の存在はそれほど大きなものとは感じていなかったのであろう。 ともかく春景は京の異変に駆け付けようとする摂津守護池田勝正、伊丹忠親らの進撃を阻止しようと五百余騎を率いて城を打って出た。このため池田、伊丹の軍勢は迂回して京へ向かうはめになったが、一部が引き返して来たために春景は城に籠ってしまった。 その後、信長の電撃的な入京により、その軍勢は八万にも及んだという。当然三好勢の姿など影も形も無くなっていた。春景は信長の強大な力と時代の変わったことをこの時になって気付いたのかもしれない。春景は信長に降伏したが、許されることなく殺された。 入江氏の滅亡によって高槻城には和田惟政が入った。惟政は細川藤孝とともに足利義昭擁立に奔走した功労者で、近江甲賀の出身であった。信長、義昭の上洛戦にも活躍して伊丹、池田氏とともに摂津守護に任ぜられて北摂の統治を担当、芥川城を居城としていたのである。 高槻城は和田惟政の手によって拡張され、近世城郭としての基礎が整えられた。 高槻城主となった和田惟政の家臣のなかに高山飛騨守、右近父子がいた。高山飛騨守は惟政が高槻城に移ってからは芥川城代をつとめた。 高山飛騨守は日本人修道士ロレンソに論争を仕掛け、逆に感銘を受けて永禄六年(1563)に洗礼を受けてキリシタンとなっていた。洗礼名はダリヨという。 飛騨守の影響があったのか、和田惟政はキリシタンの保護者であったことでも知られている。 戦国の世に安心の日々は長く続かない。惟政とともに摂津守護となっていた池田家に三好方による調略があり、当主勝正が追われるという事態が起きたのである。 惟正は境目に砦を築くなどして警戒していたが、元亀二年(1571)八月に至り白井河原において池田、荒木勢と合戦となった。三好方の加勢を得た池田、荒木勢は三千に近く、対する和田勢は五百であったという。いかに勇猛な惟政も多勢の鉄砲を集中して浴び、あえなく討死してしまった。惟政の首を上げたのは池田家の中川清秀であった。 この戦いで高山父子は惟政の子惟長とともに籠城、池田勢の攻撃に耐え続け、細川藤孝、三淵藤秀らの援軍到来まで城を守り抜いた。 元亀四年(1573)四月、和田惟長と高山右近の間に争いがあり、惟長は城を追われるという事態が起きた。宣教師フロイスは「不思議な事件」が起きたと書いている。主君への反逆はキリスト教でも戒められているからであろう。 この事件は信長と義昭の対立に起因している。和田家中の義昭派が、高山右近は信長に臣従して摂津支配を目指す荒木村重に通じていると惟長を扇動したものと思われる。惟長にとって荒木は父の敵である。若い惟長が右近の裏切りに腹を立てるのも無理はない。 この日、惟長は高山父子を広間に呼んだ。双方とも十五人ほどの部下を従えていた。すでに右近の耳には惟長らが高山父子を殺そうとしているとの報せが入っていた。右近は広間に入ると先手を打って惟長に組み付き、斬り合いとなった。当然、城内は騒然となり、右近も惟長もともに深手を負った。城内は高山方の兵が制圧したのであろう、惟長は城を脱して伏見へ遁走した。そして数日後に死んでしまった。 信長にとっては義昭の直臣である和田氏が消えたということは都合がよかったに違いない。 この事件によって高山飛騨守が高槻城主となった。そして翌天正二年には右近が城主を継いだ。 右近に城主を譲った飛騨守ダリヨはその後、信仰と伝道の道に専念した。自邸を開放してミサや説教の場とし、また天守堂を建てて右近(洗礼名ジェスト)とともに朝夕の祈りは欠かさなかったという。貧しい者の葬儀には自ら棺を担ぎ、家来たちがすすんで墓穴を掘ったと伝えられている。 天正六年(1578)十月、摂津守護となっていた荒木村重が信長に反旗を翻した。ことの仔細は別の機会に譲るが、このとき右近は茨木城の中川清秀とともに村重の配下にあった。人質も出しており、村重に従って城の守りを固めたのであった。 十一月十日、高槻城は織田の大軍に囲まれた。信長は宣教師オルガンチノを使者として右近のもとに送った。「降伏せよ、さもなくばキリシタンを根絶やしにする」とオルガンチノは信長の意を伝えた。 しかし父ダリヨ飛騨守は村重の有岡城に人質となっている娘や孫を見捨てることができす、オルガンチノを監禁して徹底抗戦を主張したのである。 右近の城主としての懊悩が続いた。しかし時間はないのである。右近は監禁されているオルガンチノを連れ出し、自らは髷を切り、両刀を捨て、甲冑を脱いで紙衣一枚の姿となって信長の陣へ赴いた。「信長公記」にはこの時の右近の姿を「伴天連沙弥」と表現している。沙弥(しゃみ)とは修行僧のことである。 右近は家臣、領民、キリシタンを守るために城主の地位を捨て、殉教の覚悟を見せたのである。この思いが信長にどのように伝わったのかは分からないが、ともかくも高槻城下のキリシタンは救われた。しかし、父ダリヨは高槻城を脱して荒木村重の有岡城に入ったのであった。 信長は右近を許して臣下に加えた。そして有岡城包囲の陣に加えられたのである。 翌年、村重が脱して城主不在となった有岡城が落城した。女子供を含む荒木一族が京において処刑された。父ダリヨは右近に免じて柴田勝家預かりとなって越前北庄に流された。 この荒木反乱事件を境に右近の信仰はより深いものとなっていったのではないだろうか。 天正九年(1581)には領民二万五千人のうち一万八千人がキリシタンとなり、二十の教会が領内に建てられたと伝えられている。さらにこの年には安土城下に教会施設の建設が許可され、右近の家臣ら千五百人が派遣されてわずか1ヶ月三階建てのセミナリヨ(神学校)が完成している。 天正十年、本能寺に信長が倒れた後、右近は秀吉のもとで明智光秀と戦った。そして廃墟となった安土のセミナリヨを高槻に再建している。 秀吉時代、右近は多くの武将に影響を与えている。蒲生氏郷、黒田孝高、中川秀政らが洗礼を受け、細川忠興、前田利家らもよき理解者となっていた。 天正十三年(1585)、右近は明石六万石(明石城)に転封となって高槻城を出ることになった。 九州が平定された天正十五年、秀吉は伴天連追放令を出した。これを境にキリシタン受難の時代へと変わってゆくことになる。当然、右近も改宗を迫られたが、敢然とこれを拒否、所領を没収されてしまった。その後も右近は信仰一途の生涯を貫き、慶長十九年(1614)に国外追放の処分となり、マニラに渡った。そして翌年二月、熱病にかかり没した。マニラに到着して四十日後であったという。 右近以後の高槻城は秀吉の直轄地となり、関ヶ原合戦後は徳川家康の直接支配となった。高槻のキリシタンは隠れキリシタンとなって信仰の灯を絶やすことなく生き続けた。 元和元年(1615)に内藤信正が譜代四万石で入城して立藩した。その後、土岐定義、頼行、松平家信、岡部信勝、松平康信と藩主が目まぐるしく替わった。 慶安二年(1649)、永井直清が三万六千石で封ぜられてからは永井家が十三代二百二十年続いて明治を迎えた。 |
▲ 城跡公園には城跡の雰囲気を残そうとするかのように石垣が天守台風に築かれている。 |
▲ 高槻市によって新たに建てられた「高槻城跡」の城址碑。 |
▲ 城跡公園に建つ「高山右近」の像。これと同じものがマニラにも建てられている。 |
▲ 高槻城址近くのカトリック高槻教会高山右近記念聖堂の敷地内にある「高槻城主ユスト高山右近」の像。イタリア人彫刻家の手によるものである。 |
▲ 記念聖堂の敷地内には高山右近の顕彰碑も建てられている。 |
▲ 高山右近記念聖堂。右近が帰天したマニラの聖母大聖堂を模して建てられた教会である。 |
▲ 永井家十一代藩主直輝が嘉永元年(1848)に初代直清の入城二百年を記念して永井神社内に造立した唐門。 |
▲ 高槻城の貴重な遺構のひとつ、本行寺の山門として移築された高麗門。 |
▲ 同好サイト「城郭探訪」五郎様に高槻市、茨木市の城址をじっくりと案内していただきました。高槻城しろあと歴史館にて。 |
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訪問年月日 | 2008年6月 |
主要参考資料 | 「高槻の史跡」他 |