後醍醐天皇にとって天皇親政と自らの皇統を維持するためには鎌倉幕府の存在は排除すべきものであったのである。最初の倒幕計画(正中の変/1324)は事前に露見して失敗に終わったが、天皇の倒幕の意志に変化はなかった。
天皇は側近日野俊基らの働きで着々と倒幕計画を進めていたが、元弘元年(1331)四月に側近吉田定房の密告によって再び幕府の知るところとなってしまった。日野俊基ら関係者が幕府によって捕縛され、追及の手は天皇に及ぼうとした。二度目であるから幕府としても見逃すわけにはいかないのだ。
同年八月二十四日、六波羅の軍兵のただならぬ動きを察した天皇は女房車に身を隠して御所を脱した。これがやがて南北朝の争乱へと続く動乱の世紀のはじまりとなる。
御所を脱した天皇は花山院師賢に変装させて比叡山へ向かわせ、幕府軍の追跡をかわすと奈良へ向かい、東大寺から金胎寺(京都府相楽郡和束町)、そしてここ笠置山に入った。御所を脱して四日目のことであった。従う者は万里小路藤房、北畠具行、千種忠顕ら数人の廷臣、奈良で一行を迎えた東南院の僧聖尋とその僧兵二百余、そして単騎駆け付けたという一ノ宮尊良親王であった。後日、叡山を脱した尊澄(宗良親王)も笠置山に合流している。
「うかりける身を秋風にさそわれて
おもわぬ山の紅葉(もみじ)をぞ見る」
の御製はこの時のものであろうか。
笠置山は修験行場として栄え山内には四十九ヵ寺が建ち並んでいたと言われる。山容は険しく、谷は深く、巨岩がそそり立つ天然の要害であった。天皇を迎えた笠置寺では山内の僧兵四百人と近郷の土豪や匠を呼んで櫓や木戸、矢間などの合戦に備える準備が突貫工事で始まったことは言うまでもない。同時に畿内をはじめ諸国に勤皇の士を募り、兵力の糾合にも力を入れた。馳せ参じた武士には南隣の柳生ノ庄から柳生永珍(柳生古城)や三河から一族を率いての足助重範(飯盛城)といった名があり、三千ほどに達した。
ここで「太平記」によれば天皇は不思議な夢を見たという。南に枝を伸ばす大樹の南に玉座があり、童子が現れてあれは天皇の玉座であると言って空に消えたというものであった。目覚めた天皇は「木」に「南」と書いて「楠」となることに気付き、河内の土豪楠木正成を召し出したことになっている。実際には、正成は笠置城に籠ることなく地元に戻り、下赤坂城に挙兵して幕府軍と戦うことになる。
一方の幕府軍は天皇が叡山に入ったものとみてそちらを攻めていたが笠置に挙兵したことを知り、急遽反転して九月二日には笠置山を包囲した。その兵力七万五千ともいわれる。しかし攻め口は一ヵ所のみである。一ノ木戸を破らぬ限り、城内に押し入ることは出来ないのである。
三日、その一ノ木戸に達した幕府方の先陣の武将が木戸を守る天皇方の大将となった足助重範の強弓によって簡単に射殺されてしまったのである。これを皮切りに必死の攻防が始まり、近づく幕府方の兵は大力の僧本性房の投げつける大岩に巻き込まれて多くの損害を出すなどして力攻めはこの日一日で終わり、後は睨み合いの状態となった。
対峙が一月近くになろうとする二十八日の夜、風雨の中を幕府方の備中国住人陶山義高ら五十数人が秘かに城内へ潜入した。義高らは所々に火をかけ、鬨の声をあげて大軍の襲撃のように見せかけたのである。城内は大混乱に陥り、全山焼亡、一夜にして落城してしまった。
後醍醐天皇も尊澄とわずかな従者に守られて笠置を脱し、楠木正成の下赤坂城を目指したが、山中を彷徨ううちに翌日になって幕府方に捕えられてしまった。その他の公家や武士たちも思い思いに落ちたが、やがて幕府の捕吏に捕まり、足助重範、北畠具行らは処刑された。
後醍醐天皇は隠岐に、尊澄は讃岐、尊良親王は土佐にそれぞれ流刑となった。
笠置山における倒幕の一挙はこれで制圧されたかに見えたが、ご存知の通り楠木正成や大塔宮護良親王の活躍で倒幕の火種は消えずにいた。やがて後醍醐天皇は隠岐を脱して船上山に倒幕の兵を挙げ、鎌倉幕府は滅亡への道をたどることになる。
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