飯盛城
(いいもりじょう)

県指定史跡

豊田市足助町飯盛


▲ 飯盛城は平安末期に当地に土着した足助氏の城跡と言われている。足助氏は
後醍醐天皇の挙兵に応じて笠置山に馳せ参じ、北条幕府軍を相手に奮戦した。
(写真・三ノ曲輪から山頂の主曲輪を見る。)

南党足助氏の古城

 平安末期平家全盛の頃、足助の荘官職を継いで土着、足助氏を名乗ったのが尾張源氏浦野太郎重直の六男重長であった。重長ははじめ黍生に城館(黍生城)を構えた。

 治承五年(1181)、重長は以仁王の令旨を携えた新宮十郎行家の挙兵に加担して墨俣川の戦いに参陣、平家軍と戦ったが敗れて戦死してしまった。ちなみに重長の娘は後に二代将軍源頼家の室となって公暁を産んだ。

 二代重秀は足助冠者と呼ばれ、居城をここ飯盛山に移した。この後、足助氏は真弓山城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城、臼木ヶ峯城(足助七屋敷)を築いて足助の地の防備を固めた。

 承久の乱(1221)では京方として戦い、三代重朝の弟重成が戦死している。足助氏はこの後、朝廷との関係を深めていったものと思われる。四代重方は従五位下佐渡守となっている。重方の後、五代頼方、六代貞親と代を重ね七代重範へと続いた。

 重範は足助次郎と呼ばれ、代々勤皇の教えを受け継いでいたものと思われる。元弘元年(1331)八月に後醍醐天皇が笠置山に兵を募ると重範は子の重政や家臣の錦織俊政らと共に笠置山に馳せ参じたのである。笠置山は山岳寺院であるが、戦ともなれば天険の要害城に変貌した。

 九月に入ると北条幕府軍七万五千余騎が笠置山を十重二十重と取囲んだ。一方の後醍醐天皇のもとに馳せ参じた勤皇の軍勢は三千余騎であったと伝えられている。足助重範は笠置山に立て籠もる天皇方の総大将となり、自ら一の木戸である仁王門の守備に就いた。三日、弓の名手にして強弓の使い手である重範は攻め寄せる幕府軍の先陣荒尾九郎・弥五郎兄弟を遠矢で討取るなどして獅子奮迅の活躍を見せた。この日笠置山の各所で戦いが繰り広げられたが天険の要害に拠る天皇方の士気は高く、幕府軍の力攻めは頓挫してその後はにらみ合いの対峙が続いた。二十八日、幕府軍の陶山藤三義高が風上の宝蔵坊に火を放ち、強風にあおられた火は瞬く間に全山を覆い、ついに笠置山落城となってしまった。

 落城後の幕府方の追捕によって天皇や側近、そして重範も捕えられてしまった。

 翌年(元弘二年/1332)、後醍醐天皇は隠岐島に流され、側近の日野資朝らと共に重範は六条河原で処刑されてしまった。

 足助に戻った重範の子重政はその後も南朝に心を寄せ続け、宗良親王に供奉して足助を去ったと言われている。いつまで足助・飯盛城に居たかは判然としないが興国四年(1343)頃であったとも言われている。

 足助に伝わる南朝伝説のひとつに後醍醐天皇の第三皇子平勝親王が元弘の乱当時に権中納言二条良基を伴って足助に来て戦勝祈願を行ったというものがある。二条良基は実在の公家であるが平勝親王というのは誰を指すのかよく分らない。ともあれ、平勝親王は父帝が京都に帰ったことを知ると足助を去り、京に戻ったと言われる。

 二条良基に関してもどのくらい足助に滞在したのかよく分らないが、足助重範の娘滝野が侍女として仕えたと言われている。滝野は良基の子を産み三吉丸と名付けた。後に成人して基久と名のり成瀬氏の祖となったという。飯盛山麓の足助氏居館跡に足助氏の菩提を弔うために香積寺を創建したのも基久である。元中五年(1388)に関白二条良基が京で亡くなった。これを伝え聞いた滝野は残されていた良基の装束を飯盛山に埋めて塚としたと伝えられている。

 現在、飯盛山に登ると山頂の主郭、一段下がった両側にニノ曲輪と三ノ曲輪の跡が削平された形で残っている。飯盛城は足助氏が去った後に廃城となったとも言われるが、戦国期に当地を支配した鈴木氏によっても利用された可能性があると思われる。


▲ 足助鈴木氏の真弓山城(足助城)から見た飯盛城。
 ▲飯盛山西側の登山口。国道153号香嵐渓交差点南側の西町第2駐車場からすぐの所である。
▲登山道を登り始めるとすぐに「太子堂」が建っている。

▲登山道の周囲は「かたくり」の群生地となっている。

▲登山道を登りきるとまず三ノ曲輪に出る。

▲三ノ曲輪からさらに登ると主曲輪である。

▲主曲輪を挟んで三ノ曲輪の反対側は二ノ曲輪である。

▲主曲輪から一旦引き返して香積寺方面に下ると足助重範の娘滝野が二条良基の装束を埋めたという装束塚がある。ここには足助重範、滝野、成瀬基久、同基直の墓塔が建っている。

▲装束塚から少し下ると足助鈴木氏五代の墓が並んでいる。

▲足助氏の居館跡に創建された香積寺。

▲香積寺の山門と参道。

▲山門を出ると参道の両側に大土塁が迫るように残っている。

▲飯盛山の南側と西側を湾曲して流れる巴川。紅葉の季節には多くの観光客で賑わう香嵐渓である。

----備考----
訪問年月日 2013年7月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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