北ノ庄城
(きたのしょうじょう)

福井県福井市中央一丁目


▲ 北ノ庄城の本丸跡とされる柴田神社と城址公園の一角には
あの「鬼柴田」の異名をとる柴田勝家の像が陣取っている。

平地の要塞

 北ノ庄城跡を訪れてまず疑問に思うことは、
「なぜ平城なのか」
 ということではないだろうか。織田信長の重鎮として数々の戦場を疾駆し、多くの城を攻め落とし、「鬼柴田」の異名をとる柴田勝家がである。

 しかしながら勝家は信長の指示のもとに築城工事を進めたのであって、城地の選定や縄張りは信長が決定した(「信長公記」)のであった。

 では信長はなぜここに築城を命じたのか、ということになる。城址の南側は足羽川が東西に流れており、さらに南側には足羽山がある。この山が平山城に最適であると思われるが、信長はそうしなかった。

 北ノ庄城の縄張りは足羽川を搦手とする後堅固の城で、背水の陣を取る形である。この辺に信長の北国戦略の一端が垣間見える。当面の敵は一向一揆の門徒勢ではあったが、信長の脳裏にはその先の越後上杉謙信との戦いが想定されていたはずである。その際にこの北ノ庄城を安土城を守るための最後の防衛要塞としようとしたのではないだろうか。足羽川の北岸に築いた北ノ庄城から南には一歩も許さないとの信長の決意がうかがえよう。 そしてその任に柴田勝家を充てたのである。豪勇無比、強敵を前にしても一歩も退かぬ豪胆な武将としては織田家随一で、最適任の人選であったといえる。

 天正三年(1575)八月、三万余騎といわれる大軍を動員して行われた信長の越前一向一揆攻めは、瞬く間に越前と加賀の能見、江沼両郡までも平定してしまった。犠牲になった一揆方の老若男女は三、四万人に及んだといわれる。信長は北ノ庄築城と越前の仕置きを終えると翌月には岐阜へ戻った。越前八郡四十九万石を与えられた柴田勝家は北ノ庄に、前田利家、佐々成政、不破光治が目付・与力として府中十万石に配された。

 この時から北国軍団長としての勝家の仕事が始まった。武辺一辺倒と見られがちな勝家であるが、領国統治に対しては善政を布いたことでも知られる。離散農民の呼び戻し、新田開発、検地、道路整備、そして一揆方から没収した武器を鋳潰して農具に作り変えるなどしたといわれている。

 さて北ノ庄城の築城である。越前平定から四ヵ月後の天正四年(1576)正月からは安土城の築城工事が開始されるのであるが、勝家の北ノ庄築城にもその技術や思想が生かされたものと思われる。後に落城焼失、そして福井城の築城によって遺構が改変されてしまったため、それを確認できないのが残念である。

 天正五年(1577)、本願寺と和睦した上杉謙信が能登を平定して加賀に迫った。柴田勝家ら北国軍団は手取川に戦ったが敗れてしまった。さすがの勝家も謙信率いる越後勢には敵わなかった。

 ところが翌年三月に謙信が急死した。反撃の好機である。勝家は加賀に兵を進め、平定作戦を展開した。謙信がもう少し長生きしていれば、北ノ庄城で激烈な攻防戦が繰り広げられていたかもしれない。

 天正八年(1580)には加賀一揆の本拠である金沢御坊を落として一応の加賀平定が済んだ。勝家はさらに能登、越中にまで軍勢を進めて上杉勢と対峙した。

 この間にも北ノ庄城の工事は進められ、天正九年(1581)に宣教師ルイス・フロイスが訪れた際にも工事中であったと記されている。天正三年以来、間断なく工事が進められていたことがうかがえる。フロイスによれば櫓や天守の瓦は石瓦(笏谷石)で葺かれ、その色によって美観が増したという。後に羽柴秀吉の書簡に「九重の天守」と記されたように勝家の築いた天守は安土城に匹敵する壮大なものであったと思われる。

 勝家は己の権威を誇示するためにこの壮麗にして広大な城郭を築いたのであろうか。そうではあるまい。北国平定の暁に主君信長を迎えるために勝家が心血注いで築いた城であると見たい。

 天正十年(1582)六月、勝家は越中魚津城攻めの陣中で本能寺の変報を受けた。勝家は落城間際の魚津城を片付けると直ちに北ノ庄城に帰還した。主君信長を迎えるために築いた天守閣が空しく見えたに違いない。

 その後、勝家は清洲会議を経て秀吉と賤ヶ岳に戦うことになる。経緯の詳細は別の機会に譲るとして、この間にお市の方が勝家のもとに嫁いで北ノ庄城に入ったことを付言しておく。

 天正十一年(1583)四月二十一日、賤ヶ岳を撤収して北ノ庄城に戻った勝家とその軍勢は三千ほどに減っていた。二十三日には秀吉軍の先鋒が北ノ庄に入り、その日のうちに続々と到着する秀吉軍によって北ノ庄城は完全に包囲された。

 勝家は家臣を広間に集め、皆に降伏を勧めたという。それでも八十名ほどが残ったので、この夜に天守で酒宴を張ったと伝えられている。勝家はお市の方にも城を逃れるように説いたが、お市の方は娘三人(茶々、お初、お江与)を逃して自らは勝家と共に自害することを選んだ。

 翌二十四日、秀吉軍の総攻めが始まり、昼には敵兵が城内に突っ込んできた。勝家は天守に火を放ち、業火の迫る中、お市の方と一族の者らを刺し殺し、近臣八十名とともに切腹して果てた。

 勝家は最期に、
「修理(勝家)が腹の切り様見申して後学に仕候へ」
 と言い残したと伝えられている。

 北ノ庄城は信長の死後一年を経ずして灰となった。まさに一夜の夢の如しである。

▲ 北ノ庄城の本丸跡は現在「北の庄城址公園として整備されてい
る。正面に勝家公の像、左の建物は柴田神社の拝殿である。

 ▲ 柴田神社の鳥居。
▲ 鳥居を入って左側に「お市の方像」がある。

▲ 境内社のひとつ「三姉妹神社」。茶々、初、江を祀る。

▲ 参道脇に建てられた「北の庄城・お市の方・殉難将士・慰霊碑」。

▲ 北ノ庄城の遺構標示。福井城築城に際して北ノ庄城の石垣は取り除かれたが、これは取り残された石垣の根石であると説明されている。

▲ 城址公園の一角に建てられた記念碑。文字は柴田勝家公の末裔でもある平山郁夫画伯の筆である。

----備考----
訪問年月日 2009年9月5日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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