(かわじりづか)
市指定史跡
山梨県甲府市岩窪町
▲河尻塚は武田滅亡後に織田信長から甲斐を与えられた河尻秀隆の
葬られた所という。織田の圧政を恨む武田旧臣らの一揆に襲われ、
その亡骸は逆さまに埋められたと言われ、さかさ塚とも呼ばれている。
(写真・教育センターのテニスコート脇の河尻塚)
黒母衣筆頭の最期
天正十年(1582)二月、対武田の最前線にあった岩村城五万石の城主河尻秀隆は総大将織田信忠と五万の大軍の先頭に立って武田領へ駆け込んだ。織田信長による武田征伐である。
黒母衣衆筆頭として常に織田信長の傍にあって戦功を重ねてきた河尻秀隆であったが、天正二年(1574)からは信長の嫡男信忠の補佐役を命じられて今日に至っている。信忠軍団の実質的な指揮官でもあった。武田征伐時に唯一激しい抵抗を見せた高遠城攻めでは主力となってわずか一日で落城させたが、一方で血気に逸る部将らを制御するなどして武辺一辺倒の武将ではなく軍団の統率者としても優れており、信長の信任は厚かった。
武田滅亡後の三月二十九日、信長は河尻秀隆に甲斐二十二万石と信濃諏訪郡を与えてその功績に報いた。しかし、およそ二か月後の六月二日の本能寺の変で信長が斃れると秀隆の甲斐統治は頓挫してしまう。しかも多くの武田旧臣らは信長を恐れて臣従を拒み逼塞していたという。
堺から伊賀越えで難を逃れ、岡崎城に入った徳川家康は甲信の状況把握に努め、甲斐の河尻秀隆のもとには家臣本多信俊を派して美濃帰還を勧めた。
ところが河尻秀隆は家康が武田旧臣を煽り、その混乱に乗じて甲斐を我が物にせんとしていると疑った。秀隆は本多信俊を岩窪館に招くと馳走して寝たところを殺してしまったのである。
信俊殺害の事実はすぐに館の外に漏れ出た。武田旧臣で館に出仕していた者によってであろうか。この情報を聞いて激怒したのが山県昌景の旧臣三井弥一郎昌武であった。
三井弥一郎は近在の地侍や旧臣を糾合して岩窪館に押し寄せた。三井らは難なく館の門を打ち破り館内に乱入、河尻秀隆を切腹に追い込んだ。遺骸は館内に掘られた穴にさかさにして埋められ、首は武田勝頼の墓前に供えられたという。
七月、徳川家康が甲斐に入ると多くの武田旧臣が臣従を願い出た。三井弥一郎もその一人で、井伊直政の麾下に配された。その後、三井弥一郎は長久手合戦で奮戦、討死を遂げた。
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▲史跡説明板の背後に見える石碑が塚である。 |
▲河尻秀隆はここに館を構えて甲斐統治の本拠地としたが、その遺構は残されていない。傾いた石碑が秀隆の無念を伝えているように思える。 |
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訪問年月日 | 2022年4月2日 |
主要参考資料 | 現地説明板、他 |