秋鹿屋敷
(あいかやしき)

磐田市中泉


▲秋鹿屋敷は府八幡宮神職秋鹿氏の天正期以降の屋敷である。
(写真・屋敷跡の木戸)

御殿の地を献上した秋鹿氏

秋鹿氏の祖は橘諸兄といわれているからかなり古い。橘諸兄は天平時代(729-749)の朝廷政治を担った人物であるが、その二十代の後裔である出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡の地頭となって入部、秋鹿氏を名乗ったことにはじまる。朝芳の四代の孫朝慶は鎌倉四代将軍藤原頼経に仕えたという。

南北朝争乱期、六代左京亮朝治は足利尊氏に属した。その戦功により遠江国羽鳥庄の貴平、中泉、西郷の地頭となって中泉に移住した。

戦国期、十三代朝兼は今川氏親に仕え、次代朝延は今川義元に仕えた。秋鹿氏は中泉を領するとともに府八幡宮の神官も勤めた。弘治三年(1557)、朝延没して直朝が継ぐ。

元亀元年(1570)、徳川家康は居城を岡崎城から浜松城へ移した。家康は二之宮の大池(磐田市二之宮)に鷹狩に来てはその近くの秋鹿邸を宿所にしていた。

秋鹿直朝は「それならば、中泉の地を御殿と為し、献上仕る」と天正元年(1573)に自邸を家康に献上して久保(現在地)村に移った。それまでの秋鹿中泉邸は徳川家に接収され、陣城あるいは宿所として利用され、天正六年(1578)からは本格的に御殿の造営がはじまり、天正十五年(1587)に中泉御殿が完成した。

天正十八年(1590)、直朝は家康の関東移封に供奉して常陸国船橋に移る。

慶長五年(1600)、関ヶ原合戦後に直朝は遠江国の旧領を拝領して帰郷、「近村御代官」と呼ばれた。代官職は直朝の後、朝正、朝重、道重と四代続いた。慶長八年(1603)、府八幡宮に社領二百五十石が家康より寄進された。

元禄十年(1697)、道重の後を継いだ朝就(ともなり)は代官を辞して神職専従となり、代を重ねて明治に至る。

明治維新により所領没収となるが明治六年(1873)に秋鹿家に払い戻され、後は料亭、遊郭、芝居小屋、借家等に利用された。

現在は磐田市が屋敷地の一部を買い取り、「中泉歴史公園」として整備が進められている。


▲秋鹿家中庭の池で扇子池と呼ばれる。

▲公園として整備された絵図。

▲公園入口。左側が駐車場である。

▲不老斎跡の碑。ここには明治33年(1900)日本に亡命していた朝鮮の政治家朴泳孝が滞在していたことがある。

▲扇子池には錦鯉が群れていた。

----備考---- 
訪問年月日 2022年10月29日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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