中泉御殿
(なかいずみごてん)

磐田市中泉

中泉御殿
▲ 公園の一画には奈良時代の建物の礎石跡が保存されて
  いる。一説では国府所在地を当所にあてる見方もある。

家康、大坂攻めの
           策を練る

 天正六年(1578)、遠江国内における徳川勢の武田方との戦いはしだいに東遠方面へと移っていた。必然的に本拠地浜松城との距離も延びることになる。その中継地としてであろうか、家康はここ中泉に砦を築かせた。

 九年前の永禄十二年、遠江進出の根拠地として現在の磐田市を選び、城之崎城の築城を進めたが、立地その他の状況から断念した経緯があった。しかし、情勢も変わり、戦闘拠点としてではなく中継拠点としてであれば機能し得ると考えたのであろう。

 天正十二年、武田氏はすでに滅び去り、駿河、遠江、三河、信濃、甲斐五ヵ国の大名となっていた家康は、中泉の砦跡に鷹狩や静養の別荘のための御殿建造を伊奈熊蔵に命じた。

 時は移り、慶長二十年(1615)一月三十日、大坂冬の陣の後始末を終えた家康はこの日、ここ中泉御殿に到着した。二月一日、謀臣本多正純から大坂城の濠や塀などの取壊し状況を聞き、八日には東下する徳川秀忠が御殿に寄った。

「いくさはこれで終ったのではない。次は豊臣の息の根を止める。引続き戦の準備を怠るでない」
 密議を終えた家康は秀忠に再出陣の近いことを伝えた。

 秀忠を見送った家康はここでしばらく休養した後、十四日に駿府城へ戻ったのである。

 周知の通り、この年五月には夏の陣の戦いによって豊臣家は滅びたのである。

 以後、この御殿は寛文年中まで使用されたという。四代将軍家綱の時代であった。

 また天正十八年からは御殿内に隣接して陣屋が設けられ、遠江、駿河、三河、甲斐にわたる徳川家の直轄地、すなわち天領支配の代官所が置かれた。

 現在は発掘調査後、住宅地となり、かつての面影は偲ぶよすがもない。


▲御殿遺跡公園の説明板。御殿の跡は宅地化してしまっている。

市内西光寺の表門。御殿(後に代官所)の門を移築したものである。数少ない御殿遺構のひとつである

▲市内西願寺の山門。中泉御殿の裏門と伝わる。

▲西願寺山門の説明板。

----備考----
訪問年月日 2005年5月8日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他