飛鳥宮
(あすかきゅう)

国指定史跡

奈良県高市郡明日香村大字岡


▲飛鳥宮は舒明、皇極・斉明、天武、持統の各天皇が宮とした宮殿跡である。
(写真・石敷井戸の復元遺構)

中央集権国家への道

古代飛鳥地域には多くの宮が置かれた。宮とは歴代の天皇が居所としたところである。古くは伝承期を含めると允恭天皇(十九代)、顕宗天皇(二十三代)、宣化天皇(二十八代・在位536-539)が飛鳥内に宮を置いた。

その後は推古天皇(在位593-628)が豊浦(とゆら)宮、後に小墾田(おはりだ)宮を居所とした。この両宮跡は発掘調査等によって場所が推定されている。

推古天皇の後、舒明天皇(在位629-641)は岡本(おかもと)宮を造営した。舒明天皇の後の皇極天皇(在位642-645)は岡本宮の地内に板蓋(いたぶき)宮を造営、重祚して斉明天皇(在位655-661)となってからもここで改築を繰り返して宮(後岡本宮)とした。以上三つの宮はすべて火災によって焼失している。この間、孝徳天皇(在位645-654)が難波に宮を移し、斉明天皇の後の天智天皇(在位668-672)が大津に宮を置いたが、次の天武天皇(在位673-686)は宮を飛鳥に戻した。飛鳥に戻った天武天皇は板蓋宮跡(後岡本宮跡)に新たに宮殿を建造して浄御原(きよみはら)宮とし、次の持統天皇もここを居所とした。持統天皇はこの後、藤原京を造営して移ることになる。

舒明天皇の岡本宮から天武・持統天皇の浄御原宮に至る同所に営まれた宮や官衙、施設跡などを一括して現在では飛鳥宮跡と呼んでいる。

飛鳥宮の最初の岡本宮は舒明天皇が630年に遷宮したもので名称の由来は岡(飛鳥宮東側の丘陵)の麓の意とされる。636年、火災にて焼失。天皇は田中宮(橿原市)へ移った。

642年、舒明天皇の後、即位した皇極天皇は大臣蘇我蝦夷に新宮殿の建造を命じた。新宮殿は岡本宮跡地に造営され、翌年には遷宮した。板蓋宮と呼ばれる。この当時、瓦葺きは寺院に限られ、檜皮葺か茅葺がほとんどであったが宮殿は板葺きで建造されたのでこう呼ばれる。この当時の蘇我氏は宮殿の建設を任されるなど、天皇家の外戚として強大な権力を握っていた。蝦夷の子入鹿は兵を結集して聖徳太子の子山背大兄王を攻めて自決に追い込み滅ぼしてしまうほどであった。

皇極天皇四年(645)六月十二日、板蓋宮にて「三国の調」(新羅、百済、高句麗からの貢)の儀式が行われた。大極殿には皇極天皇が出御し、前庭には三国の使者や大臣の蘇我入鹿らが出席した。儀式の半ば、突如として中大兄皇子が躍り出て仲間と共に蘇我入鹿を討ち取ったのである。いわゆる乙巳(いっし)の変である。中大兄皇子と中臣鎌足は天皇中心の国家建設を目指して中央集権化を推し進めた。大化の改新である。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位した。孝徳天皇の即位である。孝徳天皇は板蓋宮から難波に宮を移した。白雉五年(654)、孝徳天皇のが崩御すると皇極上皇が板蓋宮で再び即位した。斉明天皇である。翌年、板蓋宮が火災にて焼失。斉明天皇は直ちに宮の再建を実施した。後岡本宮と呼ばれる。

斉明天皇は頻繁に土木工事を行ったことで知られる。敷石運搬用の運河の開削や祭祀施設の整備などを進め、民衆から批判されたという。

斉明天皇の晩年には百済が滅亡しており、日本は百済再興の出兵をすることになる。斉明天皇はみずから九州へ行幸して軍団の準備にあたるが、開戦前に崩御(661)してしまった。結局、中大兄皇子の指示で軍団を渡海させ、白村江の戦いで大敗してしまう。

飛鳥に戻った中大兄皇子は斉明天皇を陵墓(牽牛子塚古墳)に葬ると大津に移って即位(668)した。天智天皇である。四年後、天皇は崩御して子の大友皇子と天皇の弟大海人皇子による後継争いが大乱へと発展してしまう。壬申の乱(672)である。

大友皇子を滅ぼした大海人皇子は宮を飛鳥に戻して即位した。天武天皇である。斉明天皇が整備を進めていた後岡本宮跡を拡大整備して飛鳥浄御原宮と呼んだ。

天武天皇はここで律令国家の基礎作りを進め、崩御(686)後は皇后であった持統天皇が引き継いで律令の令にあたる飛鳥浄御原令が発布された。

その後も持統天皇は天武天皇の理想を実現するために奮闘した。天皇の代替わり毎に宮を移すことをやめ、永続的な宮都の建設も天武天皇の理想であったと言われる。

持統天皇八年(694)、飛鳥の北(橿原市高殿町)に碁盤状に区切られた唐に倣った宮都が完成して移った。藤原京である。その後、宮都は平城京(710)へ、そして平安京(794)へと発展して行くのである。

 夫の天武天皇の理想を実現に導いた持統天皇は大宝三年(703)に崩御、夫の眠る陵墓(天武・持統天皇陵)へ合葬された。


▲掘立柱跡の柱列。

▲平成28年(2016)に「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に名称変更された。発掘調査の結果、複数期に渡る宮跡の遺構が確認されたからである。

▲石敷の井戸の復元遺構。飛鳥浄御原宮のものとされる。

▲天智天皇の第七皇子である志貴皇子の歌碑。「采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたずらに吹く」。

▲宮跡の西北には蘇我氏が邸宅を構えた甘樫丘が見える。

▲飛鳥宮跡に含まれる「酒船遺跡跡」。

▲酒船遺跡の導水の石造物。周囲は石敷と石垣の空間となっており、斉明天皇期から平安期にかけての祭祀遺跡と見られている。

▲蘇我入鹿の首塚。乙巳の変で斬られた入鹿の首がここまで飛んだと伝えられている。飛鳥寺の西側にある。

----備考----
訪問年月日 2022年12月6日
主要参考資料 「全現代語訳日本書紀」他

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