若神子城
(わかみこじょう)

市指定史跡

山梨県北杜市須玉町若神子


▲若神子城は甲斐源氏発祥の伝承をもつ城で、その歴史は古そうである。
戦国期には信濃進出の拠点となり、天正壬午の乱では後北条氏の拠点となった。
(写真・城氏南端部と須玉の街並み)

北条氏直、家康と対する

 国道141号から若神子城に向かうと右手山上に「甲斐源氏発祥の地須玉町」の看板が目に入る。若神子城跡である。

大治五年(1130)、源義清、清光父子が常陸国から甲斐国に配流となって入国した。その後、清光は八ヶ岳南麓の逸見(へみ)の地を本拠地として勢力を張り、逸見冠者黒源太清光と名乗った。清光は多くの男子に恵まれ、その子孫は国内各地に広がっていった。ということで清光が館を置いた場所が甲斐源氏発祥の地ということになるのだが諸説あって明確ではないのである。逸見そのものが八ヶ岳南麓の台地全体を指すらしく、谷戸城にも清光創築の伝承があり、ここ若神子城にはさらに古い新羅三郎義光になる築城伝承があるようだからなおさら分からない。

戦国期、武田信玄は「棒道」という軍用道路を整備して信濃出兵時の移動を容易にした。その起点が若神子城とされている。信濃出兵の武田勢はここで陣容を立て直して進軍を開始したとされる。

天正十年(1582)三月、織田信長により武田氏は滅亡。六月、本能寺の変により信長も滅亡した。空白となった甲斐は後北条氏と徳川氏による争奪の地となる。天正壬午の乱である。

先に兵を動かしたのが後北条氏である。北条氏直は四万三千の大軍を率いて西上野へ進撃、滝川一益と戦って敗走させた。敗走する滝川勢を追って信濃に侵攻、佐久、小県、諏訪を制して八月には甲斐へ進出、ここ若神子城に本陣を置いた。

一方の徳川家康も七月には甲斐へ進出、八月に入ると新府城を本陣として若神子城の後北条勢に対した。

両軍の対峙は八十日に及び十月に至って和睦、そして同盟が成立した。この対峙の期間中、後北条勢は甲斐北部の諸城(谷戸城など)に駐屯、防御の改修を行っている。氏直が本陣とした若神子城にもその当時のものとされる堀跡の遺構が発見されている。

結局、後北条勢は撤収して甲斐と信濃は徳川家康のものとなり天正壬午の乱は終息した。


▲天正壬午の乱の際に後北条氏によって構築途中で放棄されたとされる薬研堀の跡。

▲ふるさと公園の広場。かつての主郭跡とされる。

▲ふるさと公園の駐車場。

▲ふるさと公園の南端部にはのろし台が再現されていたが今では老朽化のために撤去されている。

▲薬研堀前の説明版。

----備考----
訪問年月日 2022年4月3日
主要参考資料 「山梨の古城」他

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