勝山城
(かちやまじょう)

豊川市三上町勝山


▲ 勝山城は大永年間(1521-28)に熊谷越後守が城主であったことが伝えられている。
宇利城主である熊谷氏の一族であると言われていること以外はよく分らない。
(写真・かつての本丸虎口付近に建つ城址碑。)

連歌を愛した武将

 室町時代の連歌師宗長の「宗長手記」に大永二年(1522)の上洛の際にここ勝山に立寄ったことが記されている。「本坂と云うこえて、西郷宿所あなひして、熊谷越後守館勝山、一日ありて連歌あり」というもので、本坂峠を越えて三河入りした際に勝山に立寄り連歌したということである。勝山城の存在が歴史に記されたのはこの時のことだけのようである。

 城主の熊谷越後守は大永六年(1526)に宗長が今橋(後に吉田、現在の豊橋)に宿した際にもわざわざ訪ねてきて夜更けまで物語したことが記されている。文化人的な横顔を持つ武将であったようだ。

 この三河における熊谷氏のはじまりは足利尊氏の六波羅攻め(元弘三年/1333)に参陣して戦功のあった熊谷直鎮が三河国八名郡に所領を賜ったことによる。その後数代を経た重実の時に宇利郷へ住したとされ、子の備中守実長は他の多くの東三河諸氏とともに今川氏に属していたことが分かっている。時期的には永正・大永の頃(16世紀初頭)であろう。

 勝山城の熊谷越後守は宇利城を本城とする熊谷氏の一族とされること以外その詳細は分らない。享禄三年(1530)、宇利城が松平清康の軍勢に攻め落とされ、城主熊谷備中守実長とその子等は城を落ちて散々となった。この戦いで勝山の熊谷越後守が清康方に属していたことが伝えられている(「三河国聞書」)程度であるが、真偽のほどは定かではない。

 東海古城研究会刊「城 第140号」三河勝山城の項所載の記事(東愛知新聞「勝山城跡碑の建立後日談」昭和55年4月18日)によれば、北設楽郡田峯の郷土史家故熊谷好恵翁は勝山城主熊谷越後守実直の十五代目の子孫であり、実直は宇利城主備中守実長の弟であったことなどが記されている。そして越後守実直の宇利攻めを否定しているのである。

 越後守実直が松平方に属して宇利攻めに加わったのであればその後の東三河の歴史に何らかの痕跡を留めていてもよさそうなものであるが、それを伝えるものはなさそうである。ということは故熊谷翁の言われたように宇利攻めには加わっておらず、兄備中守実長とともに宇利城に籠城したとも考えられる。落城後、実長の長男直安は北設楽郡豊根村に落ち延びて土着したが、越後守実直も行を共にしたのではないだろうか。

 先の研究会による調査の結果、浅野文庫諸国古城之図の「三河 成沢」の城図が勝山城であるとされたが、現況は宅地化されて遺構のほとんどは失われてしまっている。ただ、道路や周辺の地形からかつての城跡をわずかに偲ぶことができるに過ぎない。


▲ 電柱の向こうの高くなっている所が本丸跡とされる。左の角に城址碑が建つ。
▲ 川東公会堂前に建てられた城址碑。
▲ 城址碑横に立つ説明板。

▲ 城址碑前の道路。かつての堀跡と一致する。

▲ 城址南側に白山神社がありその高所には物見台が置かれたものと見られているが遺構はない。

▲ 城址の南側のもう一つの高所である権現山。ここにも物見台が置かれたものと推定されている。

▲ 本丸部分の散策中に見かけた井戸。東海古城研究会の調査報告の中に「現在は蓋があり覗くことは出来なかった」とある。この井戸がそれなのかは未確認である。あしからず。

----備考----
訪問年月日 2012年12月23日
主要参考資料 「城 第137、140号」他

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