花倉城
(はなぐらじょう)

静岡県藤枝市花倉


▲ 花倉城はかつての葉梨郷にあることから葉梨城とも呼ばれる。南朝勢力に対抗する
今川氏がここを本拠地として城下集落をも形成したものと言われるが、詳細は分らない。
(写真・登城口から見た花倉城)

戦国非情、花倉の乱

 花倉の乱は戦国大名今川義元が家督継承の際に起きた兄弟間の抗争であり、その舞台となったのがこの花倉城である。

 天文五年(1536)三月、今川氏八代当主氏輝が二十四歳の若さで没した。氏輝には嫡子が無かったため、家督継承権は兄弟へと移った。

 氏輝は先代氏親の長男であったが他に兄弟が五人いた。次男彦五郎、三男玄広恵探、四男象耳泉奘、五男梅岳承芳、六男氏豊である。名から分るように三人は僧籍にあり、末弟の氏豊は居城としていた尾張那古野城を織田信秀に追われて京に逼塞していた。普通であれば順序からいっても次男の彦五郎が継承者として問題もない存在なのだが、どういう訳か氏輝と同日に死去してしまったのである。陰謀めいたものも感じられるが、今となっては謎である。それから四男泉奘であるが、継承問題には関わらずの立場をとっていたようだ。

 そうなると三男恵探(えたん)と五男承芳(しょうほう)のどちらか、ということになる。恵探は承芳より年長であったが側室福島氏の子であった。一方の承芳は正室寿桂尼の子である。必然的に今川家中は承芳擁立でまとまろうとしていた。

 ところが、重臣福島(くしま)氏は恵探擁立を主張して憚らず、ついに挙兵して恵探とともに方ノ上城(焼津市方ノ上)に籠ったのである。

 六月十日、承芳方の岡部親綱の軍勢が方ノ上城の攻撃を開始。福島勢と恵探は方ノ上城を捨て、山間の花倉城に立て籠もった。承芳方の今川勢は日毎に大軍勢となって花倉城に押し寄せ、一方の福島方の兵は減じるばかりで落城も時間の問題となった。恵探は城を西へ脱して瀬戸谷の普門寺に逃れた。恵探はここで自刃して果て、乱は終結した。呆気ない結末であった。

 勝利した承芳は還俗して義元と名乗り、九代目今川家の当主となり、やがて三河を支配して駿河・遠江を含む三ヵ国の戦国大名となり今川家の最盛期を築くことになる。

 乱後、花倉城の名は歴史に登場することはなく、廃城となったものと思われる。

 花倉城が築かれたのは文和二年(1353)に駿河南朝の徳山城を攻略した際に今川範氏が葉梨地域に居館を構えた時であるとされている。しかし、すでに葉梨地域は建武四年(1337)に範氏の父範国が足利尊氏より与えられており、築城の時期は建武当時にまでさかのぼるものかも知れない。いずれにせよ、創築から花倉の乱に至る二百年以上にわたる間の城の歴史についてはよく分らないのが現状のようである。

 さらに武田信玄による駿河攻略時に改修された可能性の有無も含めて今後の調査研究が期待される城跡である。


▲本丸。

▲二の丸。
 ▲ 農道の終点。登城口である。駐車スペースは2〜3台分程度である。
▲ 駐車位置(登城口)から進むとすぐに土橋である。

▲ 道なりに登り続けると本丸と二の丸の間の空堀が現れる。左が二の丸である。

▲ 二の丸東縁の土塁跡。現状はわずかな高まり残している。

▲ 本丸の北端は一段高くなっており、物見台跡とされている。

▲ 本丸から空堀越しに二の丸を見る。

▲ 二の丸南の空堀。

▲ 二の丸から南を展望。

▲ 農道終点の登城口に立てられた説明板の遺構略図。

----備考----
訪問年月日 2012年3月18日
主要参考資料 「静岡県古城めぐり」
「駿河今川一族」他

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