鎌倉期に足利義氏が三河守護となった際に足利一門の種がまかれ、細川、仁木、吉良、一色、今川の各氏が三河を発生の地としている。その中でも細川氏は室町幕府において権勢を極めたことは周知のことである。しかしながらその細川氏の三河国内における足跡というのはあまり多くないようだ。
この御馬城はその細川氏の築いた城ということで貴重な史跡といえる。そのために、遺構はおろかその所在地さえも明確でないにもかかわらず、重要文化財の史跡に指定されているのである。
御馬城の来歴はこうである。応安二年(1369)、室町三代将軍足利義満が補佐役である管領細川頼之に命じ、さらに頼之が弟の頼有に命じて築城させ、頼顕、頼長、時氏と続いて永享・享徳(1429-54)の頃には細川治部大輔政信が在城していたと言われる。その後は政信の外戚である酒部河内守時重が居城としていたが文明年間(1469-86)に駿河守護今川義忠に謀られ、城を捨てて逃走したとされている。どのような経緯でそうなったのかはよく分らない。応仁の乱(1467)当初は細川氏と今川氏は東軍方として同陣営にあったが遠江の所領をめぐる争いから文明の頃には三河守護細川成之と今川義忠は敵対関係にあったから御馬城の酒部氏が何らかのかたちで今川方によって追われたものなのであろう。その後は今川方の牧野氏の支配下に置かれたようだ。
なぜ、細川氏によってこの地に城が築かれたのか。三河国府(豊川市国府町)の外港である御馬湊(音羽川河口付近)を守備するためであったと言われている(東海古城研究会「城」第137号)。
また、城の所在地としては字西と字浜田の二説があるが、地元及び県教委の城館資料では現在の城址碑の建つ字浜田を城址と比定しているようである。
永禄五年(1562)、三河平定を推し進める松平元康(徳川家康)は長沢松平市郎右衛門直信(三休)をこの城に入れて守らせ、子の昌興と二代続いた。
天正十八年(1590)、徳川氏の関東移封によってこの城は吉田城主となった池田輝政の支配となり、家臣山田藤左衛門が城を預かった。
関ヶ原合戦(1600)後は再び長沢松平の庶流松平清四郎重忠(浄感)、その子彦右衛門忠住が二代にわたり御馬に屋敷を構えたと言われ、これが字西にあったものではないかととの見方もある。
寛永十一年(1634)、久松松平定綱の家臣となった松平忠住は定綱の桑名転封に従って当地を離れ、廃城となった。宝永元年(1704)、竹を伐り、堀を埋め、塁を崩して田畑となったと伝えられている。
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