滝谷城
(たきのやじょう)

掛川市上西郷


▲ 滝谷城は築城の時期、城主ともに不明の城とされているが、地域の土豪に
よって築かれたものと思われる。(写真・城山/本曲輪と前山/物見台の間に
設けられた堀切兼用の曲輪。中央に見える階段を上がると本曲輪である。)

土豪の山砦

 滝谷城に関わるものとして滝氏や中山氏の名が城館資料に挙げられているが、何れも確実なものではないらしい。他にはこの西郷地域に多くの所伝を残している西郷氏や石谷氏に関わる城ではなかったかとも思われるが、これも確たるものではないようだ。しかしながら、石谷氏(西郷氏)がこの地域の有力者であったことは事実で、ここから900mほど南の美人谷城とともにこの滝谷城もその影響下にあったものとも思われる。

 石谷氏と西郷氏は別ものというわけではなく、時代によって両方の姓を名乗り分けていたもので、同一系のものである(三河西郷氏とは関係ない)。

 戦国時代、戦国大名今川義元に属していたことが知られているのは西郷政清という土豪である。今川氏が氏真の代になってその力が弱まると、三河の徳川家康が遠江に進出して来た。この時、政清は郷士十八人を率いて今川氏を見限り、家康のもとに参じている。永禄十二年(1569)頃のことで、この時に西郷を改め石谷を称したとされている。

 郷士十八人の長ということであるから、小勢力ながらもここ西郷地域を拠り所としていたわけである。山上に砦もしくは物見台程度のものを築いていたとしてもおかしくはない。

 滝谷城の遺構状況は後世の地形改変もあったものと思われるが、概ね自然地形を生かした単純なもののようであり、技巧的な土塁や堀、虎口といったものは見られない。やはり、小勢力なりの見張所、または避難所的なものであったように思われる。


▲ 北側から見た滝谷城の遠景。
 ▲ 県道39号線。左折すると法泉寺、右折すると城山への登城口となる。
▲ 登り口の車道は道幅が狭いうえに草木がせり出しているため、徒歩をおすすめする。

▲ 先の狭い車道を登りきるとちょっとした広場に出る。矢印の方向に登って行く。

▲ 登山路の状態。そのうち草に覆われてしまいそう。

▲ 大堀切跡。ここまで先の広場から5分ほどで着く。堀切兼用の曲輪と言われるが、あまり聞かない言葉だ。

▲ 堀切跡から登りきると本曲輪である。かつては公園として整備されていたようだが、現状は放置され、荒れ放題になっている。

▲ 本曲輪南端部。本来なら見晴らしが良いのだろうが、ご覧の状態である。

▲ 本曲輪東側は急斜面となっている。

▲ 本曲輪北端部。土塁の痕跡?あるようなないような。

----備考----
訪問年月日 2012年6月24日
主要参考資料 「静雄県の中世城館跡」
「ふるさと探訪・掛川の古城址」他

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