豊臣秀吉こと木下藤吉郎が織田信長の家臣として頭角を現す契機となったのがこの墨俣(州俣)築城の成功であった。墨俣築城に至る経緯と築城時の様子は前野家文書「武功夜話」に記され、また同家文書「永禄墨俣記」を主としてまとめられた墨俣町発行の「木下藤吉郎
墨俣築城への道」にはさらに詳しく紹介されている。
ところで、墨俣が戦略的要地であったことは美濃側にとっても尾張側にとっても同じで、双方ともに譲ることのできない所であったが、この地は長良川と犀川の合する所で大雨の度に流路が変わり、どこまでが河でどこから陸と呼べるのか定まらずと言われ、拠点を設けるにも難儀な場所であったようだ。それでも、美濃攻略を志す信長は幾度もここに出兵して美濃勢と干戈を交えている。
永禄三年(1560)五月に桶狭間(桶狭間古戦場)に今川義元を討取って大勝した信長はその直後、佐々成政に出城を墨俣に設けることを命じた。後顧の憂いの無くなったことで美濃攻略に本腰を入れるためであったことは言うまでもない。八月に信長自身が出陣して斎藤勢と戦っているが増水のために退却している。翌四年にも築砦を再開して五月に信長自身が陣を布き、森部や十四条で斎藤勢と戦ったが砦の維持は難しく、翌五年には墨俣から手を引いてしまった。
その後、信長は東濃攻略に集中したがやはり稲葉山城(岐阜城)の斎藤氏を攻略するには西濃を押える必要があった。この頃すでに西美濃三人衆は信長に内応を約していた。永禄九年(1566)、藤吉郎は信長に墨俣築城を進言し、信長も木曽七流を生活の場とする土豪集団の川並衆を掌握しつつあった藤吉郎を信用して一任したと伝えられる。
藤吉郎はその川並衆の頭領蜂須賀小六や前野長康らを口説いて築城の計画を推し進めた。材木等の資材の調達から運搬方法まで細かく計画が練られ、そして実行に移された。集められた勢子(作業者)二千百四十人とあり、蜂須賀小六らの在野勢力の大きさが尋常のものでなかったことが分かる。何者にも属さない彼らが団結して墨俣築城に邁進する様子は「武功夜話」の文字から伝わってくる。何が彼らを動かしたのであろうか。墨俣築城の重要性に応えるためか、はたまた信長のためか、褒美が目的であったのか。彼らは利で動いたのではなく、藤吉郎の熱誠に動かされたものと見たい。いわゆる義侠心で藤吉郎の申し出に応えたといえる。
築城工事は九月十二日に始まり、馬柵設置を優先して進められ、夜間に櫓や高塀などの城普請が進められた。
十三日、朝から斎藤勢の攻撃を受けながらも工事は続けられた。築城側の戦闘部隊は藤吉郎直卒の鉄砲隊七十五人と前野党を主とする三百十二人であったようだ。彼らが押し寄せる敵勢を防ぎ、矢玉の飛び交う中、築城作業は休みなく続けられた。
十四日には斎藤方長井隼人の軍勢二千余騎が押し寄せ、激しい戦闘が繰り返された。それでもこの日には城の大方が完成した。計画段階では高櫓五棟、平櫓三棟、土居二百五十間、高塀百三十六間、馬止柵千八百間、井戸二ヶ所、堀切三百五十間、清州旦那御座敷(信長)一ヵ所と記されており、ほぼこの通りに完成したのであろう。
つまり九月十二日から十四日にかけての突貫工事で滞在可能な城が出来上がったわけである。後に一夜城と呼ばれるのもこの短時間による完成を言い表しているのだ。
そして十五日、信長は柴田、佐々、丹羽、森の諸将以下三千余騎を従えて入城、陣取り、藤吉郎らに銀子百枚、金子五十枚を褒美として与えたと記されている。
翌、永禄十年(1567)八月、稲葉山城、落城。藤吉郎は蜂須賀党、前野党ら二千余を率いて水の手口から攻め上り搦手の門から突入したと伝えられている。この後、稲葉山城は信長によって岐阜城と改められたことは周知のことである。
その後、墨俣城は歴史の表舞台に現れることは無くなったが、木下藤吉郎こと羽柴筑前守秀吉の番城として維持されたようだ。天正元年(1573)、秀吉は近江今浜に移って長浜城を築いて居城とした。天正十一年(1583)大垣城主となった池田恒興の家臣伊木清兵衛が墨俣城主となり、翌年の小牧・長久手の戦いに備えるためか、城を修築したと伝えられている。戦後、清兵衛は去り、城は放棄されたようで、天正十四年(1586)の洪水で流されたとも、自然に消滅したとも言われている。
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